風の絆
「ぃらっしゃい!」
「よっ、今夜は寒いね」
「西川さんは長野生まれだって言ってたじゃない、あっちはこんなもんじゃないでしょ?」
「いやぁ、向うだと屋内は思いっきり暖房してるし、外歩く時はこんな薄いコートじゃなくてダウンとか着込むから案外寒さには弱いんだよ」
「そんなもんかね、燗はどうする? いつもの上燗?」
「今日は熱燗で貰おうかな」
「肴は?」
「親父さんに任せる、適当にみつくろってよ、旨いやつね」
「あいよ」
東京は新宿。
東京に繁華街はいくつもあるが、若者が集う渋谷・原宿、サラリーマンが集う新橋・有楽町、はたまたお祖母ちゃんの原宿・巣鴨などと違い、新宿にはあらゆる年齢層、雑多な職種の人間が集まって来る、良く言えば多様な、悪く言えば吹き溜まりのような街だ。
建ち並ぶ店も同じ、立派なビルの高級店もあれば、露天商よろしくどこから仕入れて来たのかわからないような品を商う店もある。
商業ビルに入居している店もバラバラ、1階にキャラクターグッズを並べる店があるかと思えば、上階には接客を伴うパブやスナックが入っているようなことも珍しくない。
小遣いを握りしめた中学生とヤクザ者が普通にすれ違っても、誰も違和感を覚えない。
ビル風のようにくるくると舞う風、それがこの街をこの街たらしめているのだ。
だが、吹き溜まりには吹き溜まりなりの良さがある。
とりわけ戦後すぐの時代からやっているような、古い小さな店が立ち並ぶこの辺りは、そんな吹き溜まりに魅せられた人々が夜な夜な風に背中を押されてやって来る。
カウンター15席、それが全てのこの居酒屋もそんな古い店で、新宿で生まれ育った二代目がひとりで店を切り盛りしている。
西川は20年ほど前からちょくちょく顔を出す常連客。
四谷にある会社に勤めていて、帰りに一杯やって行くと言うことだけは知っているが、業種や会社名は知らない。
大企業に勤めていようが零細企業だろうが、重役だろうが平社員だろうがこの店では上も下もない、高級クラブのママだろうが場末のスナック店員だろうが優劣はない、年長者を敬うことはするが、年長者は若者を対等に扱う、ここでは誰もが横並びなのだ、カウンターしかない座席のように。
常連の間ではそれが不文律になっているので、誰も肩書などと言うものは尋ねない。
唯一の例外で職業がバレているのは近くの劇場に出演しているストリッパーたちくらい、彼女らだけは職業柄顔を知られている……知られているのは顔だけではないが……それでも彼女らの職業を蔑む者はいない、舞台表現者として認めているのだ。
その日も西川は気の置けない常連たちと飲み、食べ、愉快な時間を過ごしていた。
「西川さん、野沢菜漬けの旨いのが入っているけど食べる?」
「いいねぇ、懐かしいよ、野沢菜」
「どうやって食べたい?」
「やっぱり茶漬けかな、今夜はここらで締めることにするよ、明日の朝早いんだ、長野に行くんでね」
「里帰りかい?」
「いや、用事があって行くんだけどさ、しばらく帰ってなかったから親父とおふくろの顔も見て来るよ」
「そうかい、それじゃさっそく作るよ、野沢菜茶漬け」
その時、店に入って来た40代半ばの客、親父さんも初めて見る客だ……カウンターに座って突き出しをつまみながら酒をちびちびやりながらも時折西川に視線を送っていたのだが……。
「あのぅ、もしかして西川選手ですか?」
「え? ああ、まあ、そうですけど……」
「やっぱり! いやぁ、郷土の英雄に東京で会えるなんて、最高ですよ!」
「へぇ、西川さん、何かの選手だったの?」
と、常連の女性客。
「まあ、スキーのね」
「英雄って言われるなんて凄いじゃない、速かったんだ」
「いや、ジャンプなんで、速さじゃなくて距離だけどね」
「ジャンプ!? すごいなぁ、一度白馬のジャンプ台を見に行ったことあるのよ、スタート地点から下を見たらさ、ここから滑り出せるだけでもすごい度胸だと思ったもの」
常連たちが西川を褒めるのに気を良くしたのか、初めての客はこう続けた。
「そう、その白馬ジャンプ台です、僕、オリンピックの時現地で観戦してたんですよ、僕も当時高校でジャンプやってて、西川さんが飛ぶのもこの目でしっかり見ましたよ」
「え? 長野オリンピックのジャンプって言ったら金メダルじゃない、西川さん、金メダリストだったの!?」
「いや、リレハンメルの銀メダルは持ってるけど、長野では僕は代表には入れなかったんだ、だから本番では飛んでないんだ」
「でも、彼は今、西川さんが飛ぶのを見たって」
「テストジャンパーって知ってる?」
「ああ、知ってる、競技の前に飛んでるジャンパーでしょ?」
「俺、代表メンバーに入れなかったんで、テストジャンパーやってたんだよ」
その時、黙って聞いていた年配の常連、沢田が口を開いた。
「あの日、確か吹雪で2本目の競技が行われるかどうか、微妙だったんじゃなかったかな……1本目と2本目の間に大勢のテストジャンパーが飛んだ記憶があるが……すると、あの中に西川さんがいたのか」
「ええ、まあ、そう言うことです」
西川が照れ気味に言うと、初めての客はちょっと勢い込んだ。
「1本目が終わった時点で日本は4位だったんですよ、2本目がなくなっちゃったらメダルもなくなるじゃないですか、でも風と雪が酷くて本当に打ち切られるんじゃないかってハラハラしました……でもあの時、25人のテストジャンパーが誰一人転倒しなかったんです、あの天候の中で、それって奇跡的ですよ、そして西川さんが最後にK点越えの大ジャンプを見せて、それで続行が決まったんですよ」
「……と言うことは、西川さんもあの金メダルには大いに貢献してたってことか」
沢田が自慢の白いあごひげを撫でながら言った。
「俺はただ役目を果たしただけですよ、それより、2本目があるかないかもわからないのに、あの雪の中で誰一人帰ろうとしなかったお客さんも後押ししてくれたんだと思いますよ」
初めての客はちょっと照れ臭そうに笑った。
「でも銀メダルは持ってるんだろう?」
「ええ、持ってますよ、実家に置きっぱなしですけど」
「ワシなら床の間に飾るな、家宝としてね」
沢田が笑いながら言う……と西川は遠くを見つめるようにして話し出した。
「銀メダルは確かに記念の品ですけどね、俺には代表候補の絆の方が宝ですよ、代表チームに入れるのは4人だけですからそれぞれがライバルでもあったんですが、切磋琢磨して技術を磨き合い、長野で金を合言葉にトレーニングに励んだ……その想い出が何よりの宝物です」
「さすがに西川さんだな、実に良いことを言う」
「それよりも、あの日、何としても原口に2本目を飛ばしてやりたかったんです……」
原口と言う名を聞いて、一同の間に沈黙が流れた。
原口選手と言えば、長野の前、リレハンメルオリンピックでの失敗ジャンプが知られている、日本チームの最後に登場した彼は、彼にとっては難しくない105mを飛べば金メダルを獲得できると言う場面で97.5mに終わり、一転して金メダルを逃して泣き崩れた姿が有名だ。
あの時原口が失敗していなければ、西川の持つメダルの色も違っていたはずなのだ。
「よっ、今夜は寒いね」
「西川さんは長野生まれだって言ってたじゃない、あっちはこんなもんじゃないでしょ?」
「いやぁ、向うだと屋内は思いっきり暖房してるし、外歩く時はこんな薄いコートじゃなくてダウンとか着込むから案外寒さには弱いんだよ」
「そんなもんかね、燗はどうする? いつもの上燗?」
「今日は熱燗で貰おうかな」
「肴は?」
「親父さんに任せる、適当にみつくろってよ、旨いやつね」
「あいよ」
東京は新宿。
東京に繁華街はいくつもあるが、若者が集う渋谷・原宿、サラリーマンが集う新橋・有楽町、はたまたお祖母ちゃんの原宿・巣鴨などと違い、新宿にはあらゆる年齢層、雑多な職種の人間が集まって来る、良く言えば多様な、悪く言えば吹き溜まりのような街だ。
建ち並ぶ店も同じ、立派なビルの高級店もあれば、露天商よろしくどこから仕入れて来たのかわからないような品を商う店もある。
商業ビルに入居している店もバラバラ、1階にキャラクターグッズを並べる店があるかと思えば、上階には接客を伴うパブやスナックが入っているようなことも珍しくない。
小遣いを握りしめた中学生とヤクザ者が普通にすれ違っても、誰も違和感を覚えない。
ビル風のようにくるくると舞う風、それがこの街をこの街たらしめているのだ。
だが、吹き溜まりには吹き溜まりなりの良さがある。
とりわけ戦後すぐの時代からやっているような、古い小さな店が立ち並ぶこの辺りは、そんな吹き溜まりに魅せられた人々が夜な夜な風に背中を押されてやって来る。
カウンター15席、それが全てのこの居酒屋もそんな古い店で、新宿で生まれ育った二代目がひとりで店を切り盛りしている。
西川は20年ほど前からちょくちょく顔を出す常連客。
四谷にある会社に勤めていて、帰りに一杯やって行くと言うことだけは知っているが、業種や会社名は知らない。
大企業に勤めていようが零細企業だろうが、重役だろうが平社員だろうがこの店では上も下もない、高級クラブのママだろうが場末のスナック店員だろうが優劣はない、年長者を敬うことはするが、年長者は若者を対等に扱う、ここでは誰もが横並びなのだ、カウンターしかない座席のように。
常連の間ではそれが不文律になっているので、誰も肩書などと言うものは尋ねない。
唯一の例外で職業がバレているのは近くの劇場に出演しているストリッパーたちくらい、彼女らだけは職業柄顔を知られている……知られているのは顔だけではないが……それでも彼女らの職業を蔑む者はいない、舞台表現者として認めているのだ。
その日も西川は気の置けない常連たちと飲み、食べ、愉快な時間を過ごしていた。
「西川さん、野沢菜漬けの旨いのが入っているけど食べる?」
「いいねぇ、懐かしいよ、野沢菜」
「どうやって食べたい?」
「やっぱり茶漬けかな、今夜はここらで締めることにするよ、明日の朝早いんだ、長野に行くんでね」
「里帰りかい?」
「いや、用事があって行くんだけどさ、しばらく帰ってなかったから親父とおふくろの顔も見て来るよ」
「そうかい、それじゃさっそく作るよ、野沢菜茶漬け」
その時、店に入って来た40代半ばの客、親父さんも初めて見る客だ……カウンターに座って突き出しをつまみながら酒をちびちびやりながらも時折西川に視線を送っていたのだが……。
「あのぅ、もしかして西川選手ですか?」
「え? ああ、まあ、そうですけど……」
「やっぱり! いやぁ、郷土の英雄に東京で会えるなんて、最高ですよ!」
「へぇ、西川さん、何かの選手だったの?」
と、常連の女性客。
「まあ、スキーのね」
「英雄って言われるなんて凄いじゃない、速かったんだ」
「いや、ジャンプなんで、速さじゃなくて距離だけどね」
「ジャンプ!? すごいなぁ、一度白馬のジャンプ台を見に行ったことあるのよ、スタート地点から下を見たらさ、ここから滑り出せるだけでもすごい度胸だと思ったもの」
常連たちが西川を褒めるのに気を良くしたのか、初めての客はこう続けた。
「そう、その白馬ジャンプ台です、僕、オリンピックの時現地で観戦してたんですよ、僕も当時高校でジャンプやってて、西川さんが飛ぶのもこの目でしっかり見ましたよ」
「え? 長野オリンピックのジャンプって言ったら金メダルじゃない、西川さん、金メダリストだったの!?」
「いや、リレハンメルの銀メダルは持ってるけど、長野では僕は代表には入れなかったんだ、だから本番では飛んでないんだ」
「でも、彼は今、西川さんが飛ぶのを見たって」
「テストジャンパーって知ってる?」
「ああ、知ってる、競技の前に飛んでるジャンパーでしょ?」
「俺、代表メンバーに入れなかったんで、テストジャンパーやってたんだよ」
その時、黙って聞いていた年配の常連、沢田が口を開いた。
「あの日、確か吹雪で2本目の競技が行われるかどうか、微妙だったんじゃなかったかな……1本目と2本目の間に大勢のテストジャンパーが飛んだ記憶があるが……すると、あの中に西川さんがいたのか」
「ええ、まあ、そう言うことです」
西川が照れ気味に言うと、初めての客はちょっと勢い込んだ。
「1本目が終わった時点で日本は4位だったんですよ、2本目がなくなっちゃったらメダルもなくなるじゃないですか、でも風と雪が酷くて本当に打ち切られるんじゃないかってハラハラしました……でもあの時、25人のテストジャンパーが誰一人転倒しなかったんです、あの天候の中で、それって奇跡的ですよ、そして西川さんが最後にK点越えの大ジャンプを見せて、それで続行が決まったんですよ」
「……と言うことは、西川さんもあの金メダルには大いに貢献してたってことか」
沢田が自慢の白いあごひげを撫でながら言った。
「俺はただ役目を果たしただけですよ、それより、2本目があるかないかもわからないのに、あの雪の中で誰一人帰ろうとしなかったお客さんも後押ししてくれたんだと思いますよ」
初めての客はちょっと照れ臭そうに笑った。
「でも銀メダルは持ってるんだろう?」
「ええ、持ってますよ、実家に置きっぱなしですけど」
「ワシなら床の間に飾るな、家宝としてね」
沢田が笑いながら言う……と西川は遠くを見つめるようにして話し出した。
「銀メダルは確かに記念の品ですけどね、俺には代表候補の絆の方が宝ですよ、代表チームに入れるのは4人だけですからそれぞれがライバルでもあったんですが、切磋琢磨して技術を磨き合い、長野で金を合言葉にトレーニングに励んだ……その想い出が何よりの宝物です」
「さすがに西川さんだな、実に良いことを言う」
「それよりも、あの日、何としても原口に2本目を飛ばしてやりたかったんです……」
原口と言う名を聞いて、一同の間に沈黙が流れた。
原口選手と言えば、長野の前、リレハンメルオリンピックでの失敗ジャンプが知られている、日本チームの最後に登場した彼は、彼にとっては難しくない105mを飛べば金メダルを獲得できると言う場面で97.5mに終わり、一転して金メダルを逃して泣き崩れた姿が有名だ。
あの時原口が失敗していなければ、西川の持つメダルの色も違っていたはずなのだ。