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タクシーにまつわる4+1つの短編

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1:明け方のカウンセラー



 僕が、社会人になったばかりの頃のことだ。

 ほんの少しだけ暖かくなり始めた、晩冬の金曜(正確には土曜か)深夜3時頃のこと。取引先の社屋をようやく退出し、とぼとぼと歩いていく僕。その足取りは、タクシー乗り場へと真っすぐ向かっていた。
 この年僕は、小さなソフトウエア開発会社に入社した。厳しい業界とは聞いていたが、ご多分に漏れず2カ月程度の研修で即配属され、気づけば休出や徹夜での作業が日常茶飯と化していた。
 このとき所属していたプロジェクトも、人手の少なさや設計、開発力の低さといった理由で、スケジュールが大幅に遅れていた。そんなありさまだったので、何度か延期をしてようやく迎えた納期の後も、バグが頻発する。この日も僕は、深夜まで先輩や上司、協力会社の人に呆れられながら対応作業をし、深夜3時過ぎにようやく帰宅を許されたのだった。
「……」
言葉もないまま乗り場に並び、タクシーの到来を待つ。今日は花金、僕の他は酔客しかいない。そんな陽気な人たちにクタクタの体を挟まれ、仕方なくタクシーを待ち続けるしかなかった。
「お待たせしました」
30分ほどたち、ようやく自分が先頭となり念願のタクシーにありつく。時刻はもう4時近い。今からタクシーに乗っても、家につくのは5時半過ぎ。でも普段なら休日である土曜日も、今の状況では休むことができない。休日出勤で、遅くとも昼頃には再びここに来なければならないのだ。
 風呂に入らなきゃ、ワイシャツとかも洗濯しなきゃ、それ以上に一分でも多く眠りたい。さまざまな思いが渦巻く中、シートに身を沈める。
「…………」
「お客さん、どちらまで」
考え事と疲労のせいで、運転手さんに行き先を告げるのすら忘れてしまう。僕は慌てて行き先を告げ、あらためてシートに全体重を乗せる。タクシーは、ゆっくりとその身を滑らせて発進した。

 僕は人がいると、どうにも気になって眠れない性質だ。タクシーの運転手さんなんて、そう何度も会うものではない。一回こっきりで二度と会わないことだって、ざらにあるだろう。それ以前に、前に乗った運転手さんを覚えているほどの記憶力はありゃしない。そう考えれば歯ぎしりをしたって、高いびきをかいたってそれほど大した問題じゃない。そんなことわかりきっているのに、何かと気を張ってしまって眠ることができないのだ。この日も僕は、シートに座ってまんじりともせず、運転手さんのハンドルさばきを眺めていた。
 運転席に座る運転手さんは、齢60を過ぎたくらいだろうか。中肉で脂っ気の抜けた、人の良さそうなおじさんといった感じの風体だった。
「この時間まで、お仕事ですか」
運転手さんも、一挙手一投足をじろじろ見られて決まりが悪かったのだろう、こちらに話しかけてくる。
「……ええ」
正直、受け答えすらもきつかったが、問いかけを無視するのもどうかなと思った。だから、僕は面倒だなぁと思いつつ話に応じる。
「でも、今日はお休みなんじゃないんですか」
「いえ、これから家に帰って、仮眠取って昼にはまた来る予定です……」
「……そうですか、それは大変ですね」
「ええ……」
気まずい沈黙が流れる。そりゃそうだろう、明るい話題なんか何一つないんだから。

 そのまま、会話が途切れて数分がたった。遠くから聞こえるサイレンと、タクシーのエンジン音だけが聞こえる車内。その間、運転手さんは運転に集中し、僕はいろいろなことを考え込む。今日起きたバグのこと、今食べたいもののこと、余裕ができたらしたいこと……。とりとめもなく考えていたら、僕はなぜかこの運転手さんと話がしたいと思い始めてきた。長引く沈黙からの不安感か、もう会うこともないからいいかと思ったのか、僕の中で何らかの心境の変化が起きたのか、今となってはもうわからない。

「……実はきついんでもう、辞めちゃおうかなって思ってるんです」
ようやく切り出すことができた自分の発言に、自分が一番驚いていた。仕事を辞めるなんて、考えたこともなかったから。

 いや、実はわかっていたんだ。考えたことが、なかったんじゃない。考えぬよう、心にふたをしていたんだ。

 話を切り出してからの僕は、せきを切ったように止まることを知らなかった。常に怒られどおしの毎日であること、今の仕事がそれほど面白いとは思えないこと、自分の才能のなさにうんざりしていること、みんなに迷惑をかけているということ……。ぼろぼろ涙をこぼしながら、運転手さんに思いをぶつけるそのさまは、神父にざんげを行う罪人のようだった。

 運転手さんが僕のその告白にどう答えたかは、実のところよく覚えていない。多分、3年は頑張ったほうがいいという、少々月並みな言葉をもらったような気がする。でも確実に覚えているのは、その時ちょうど橋を渡っている最中だったことと、その橋の上から見た日の出の光景がとても美しかったことだった。

 やがてタクシーは、僕の家の前に到着する。僕はスッキリした気持ちで、お金を払って運転手さんに非礼をわびた。運転手さんも、僕に「頑張ってください」と言葉を添え、お釣りを渡してくれた。


 その後僕は、この会社を10年ほど勤め上げてから、転職した。それが良いことか悪いことかは、無論わからない。あのとき思い切ってすっぱり辞めてしまった方が、もしかしたら幸せだったのかもしれない。

 でもあの運転手さんのおかげで、僕はおかしくなっていた心のバランスをとにかく取り戻すことができた。それはとても貴重な経験であり、今でも財産になっていると思っている。