Joint
一
― 現在 ―
エンジンが停まり、バックモニターとラジオと会話も、一気に止まった。有田義彦はキーをシリンダーから抜くと、根元が錆びてやや傾いている柵を押しのけるように、ドアを開けた。妻の由美は、何個もある紙袋の紐を、あやとりのように細い指にひっかけて、助手席から降りた。後部座席から、娘の明日香と孫の智博が降りて、四人は、街灯がぼんやりと照らす土地を、誰ともなく見つめた。八枠ある『有田月極駐車場』の一番狭い端の枠は、オーナーである義彦が使っている。
一九八〇年に本業のクリーニング屋を始めた。芸術的なセンスに恵まれなかった義彦と、夫の言うことに特に反論しない由美が考え出した屋号は『クリーニングの有田』。店舗は自宅を兼用していて、店に大きな土地がついているというよりは、大きな土地の中にぽつんとクリーニング店兼家屋があるような印象だったが、二年も経たない内に、空いている土地を舗装して白線を引き、駐車場に様変わりさせた。その次の年に明日香が生まれ、三年が経って、圭一が生まれた。一気にギアが入ったように、生活は高速で回り始めていた。二人とも独立して、その動きは緩やかになったものの、一度入ったギアは、まだ回り続けている。駐車場は、先月引っ越していった家族が借りていた三番が空いている以外は埋まっていて、クリーニング店の方も、地元の店だから固定客がいる。
義彦は、六十五歳になった。手はボロボロだが、仕事はできる。ずっと隣で支えてきた由美が、言った。
「みんな、お腹いっぱい?」
明日香が首を傾げた。
「うーん……、智博は?」
八歳になる智博は、答えを探すように自分のお腹をさすったあと、義彦に意見を求めるように、顔を上げた。義彦は同じようにお腹をさすると、うなずいた。
「おれは、ちょっと食べたいかな」
「どんなん?」
由美が言うと、義彦は申し訳程度に残った白髪頭を撫でつけた。
「せやなあ、ステーキとか」
智博が目を輝かせながら笑いだして、義彦もつられて笑いながら、その表情を伺った。その顔にはまったく疲れが感じられず、ステーキ一枚ぐらいなら、平気な顔で完食しそうだった。明日香は、商店街の方を見て、小さくため息をついた。
「もー、学校なかったらほんま元気やな。開いてるかな、どっか」
夜十時という、八歳の子供にとっては物珍しい時間。明日香はスマートフォンで開いているレストランを探しながら、思った。三十七歳になった。嫁いで菊野明日香になったのは、もう九年前のこと。夫の菊野忠司は、出張先で新型感染症の患者が出たことで、自主的に隔離することなり、二週間ほど家に帰って来られずにいる。
「お父さん、とっておきの肉あるんちゃう? 食べたら口腫れるやつ」
由美が言った。六十四歳になるが、全ての折り目を完璧に仕上げた礼服のような身のこなしは、二日ほどしっかり寝ていないにも関わらず、全く綻びを見せない。義彦は笑った。
「そんな肉、うちには断じてないぞ」
智博が二人の会話に食いつくように耳を澄ませているのを見て、義彦はわざとらしくしかめ面を作った。
「分かった。もう隠しきれんな。食べていき」
由美と明日香に続いて、智博が家に上がり、義彦は全員が二階に上がっていく足音を見送った後、静まり返った駐車場の中を歩いた。義彦が使っている最も停めづらい枠には、番号がない。元は一番と書いてあったが、ゲン担ぎで希望する人間が多かったから、番号自体を消した。だから、月極の枠は二番から始まっていて、四番も縁起の問題で、飛び番になっている。義彦は、整列するように停まる車の前を横切るように、ゆっくりと歩いた。
二番は、白井一家のセレナ。妻が停める日は、斜めになっていることが多い。三番は空き。五番は、開地さんのメルセデス。古い人間で、朝一番にエンジンをかけたときは、一度だけ空ぶかしをする。六番は、矢田部さんのシルビア。空を飛べそうなリアウィングがついていて、ガレージジャッキがセットで置かれている。他の人間なら、七番の枠に停まっている車を気味悪がったかもしれない。
七番、西井のマスタングキングコブラ。七十八年型で、白の車体に紺色のストライプが走っている。西井がこの枠の賃料を払ったのは、一九九五年が最後。二十五年もの間放置されて、タイヤは四輪とも空気が抜けきり、ヘッドライトは片目が落ちている。車体は錆と混ざって茶色く変色している箇所もあって、夜に見るとより不気味だった。
義彦は、遺品の入った段ボール箱を持って上がるかどうか、まだ迷っていた。智博は興味津々で見たがるだろう。由美は『しばらくこっちで過ごしたら』と言っていたし、明日香は乗り気だった。それ自体は大歓迎だが。頭の中で呟くと、義彦はマスタングの傾いた車体を眺めながら、喪服とセットになった、窮屈で細い黒のネクタイを緩めた。
弟の有田丈治は、二歳年下だった。中背中肉の兄と比べて大柄で、何よりバイクが好きだった。最近は電話のやり取りばかりで、十年以上顔を見ていなかったが、四日前、雨の中をバイクで走っていて、事故で死んだ。死因は、対向車との正面衝突による脳挫傷。事故の相手は逃走している。破片や事故の状況からすると、トラックの可能性が高い。バイクは、フレームが折れて半分ほどの大きさになっていた。
義彦は、まだ慣れないスマートフォンを取り出した。着信履歴から辿って圭一の番号をぎこちなく押すと、すぐに通話が始まった。
「圭一、仕事は大丈夫か?」
「もう終わるかな。葬式、どやった?」
「葬式は、まあ葬式や」
義彦はそう言って、笑った。圭一は三十四歳で、要職にがんじがらめになっている。今は特に忙しい時期だ。それでも、葬式が落ち着いたら電話をくれとメールを寄越してきたのは、圭一の方だった。義彦は、シルビアが停められた六番を見つめた。壁側のレンガブロックが少し歪んでいるのは、九十年代にコバルト物流に貸していたとき、そこの運転手だった式野がぶつけたからだ。式野は、無期刑を受けて刑務所にいたが、丈治の話だと去年の暮れには出所していた。しばらく沈黙が流れた後、圭一は言った。
「タイミング逃した感はあるけど。明日には帰るわ」
「分かった」
圭一の会社の話をしばらく聞いた後、義彦は電話を切った。シャッターの下りた店舗の隣には、有田の表札がかかった古いドア。ドアノブに手をかける前に、義彦は店の前の道路を挟んだ向かい側を振り返った。二十五年前は『井出商店』という名前の屋台で、焦げた焼そばのような顔色の店主が、小さな鉄板で鯛焼きとイカ焼きを焼いていた。二月に突然改装工事が始まったと思ったら、翌月には看板が出来上がっていた。挨拶に来たときにすぐ理解したが、堅気の人間ではなかった。一週間も経たない内に、子供向けのミニカーのような見た目の車から降りてきた男が、『駐車場を二枠借りたい』と言ってきた。それが西井だった。隣の六番と線をまたぐようにして、マスタングを停めるようになった。丈治は、まさにその界隈へ出入りしていた。いや、それどころか、どっぷりと漬かり込んでいた。果たして、丈治は式野に自分から会いに行ったのか。それとも、見つかったのだろうか。その結果が、正面衝突による事故死なのか。