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私には要も急もある 羽田涼子VS新型ウイルス感染症

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「すいません、これは何個まで買えるんですか?」
「いえ、特に制限はございません」
「わかりました。ありがとうございます」

 やった。店員さんからそれを聞き、心の中でガッツポーズをした。スマホを取り出し、結衣に電話をかける。

「見つけたよ。制限はないんだって。そうは言われても買い占めは気が引けるから……九個くらいでいいかな」
「ギリギリ一桁に収めようとする良心? 涼子らしいよね」と結衣が笑いながら言う。
「何かが三回まで許されるとしたら、控えめに一回でやめるよね。でも一回は絶対やる」
「バカにしてます?」
「ごめん、ごめん。せっかく探してくれたのにね。じゃあ、九個でお願い」
「はい、はーい」

 私は通話を切り、カゴを取りに向かった。


 九個もあると重たいものだ。結衣の部屋は六階。わりと新しいマンションなのにエレベーターがない。だから家賃が安いのか。何軒も探し回った末にようやく手に入れた大量のブツをぶら下げ、階段を昇る。今年は暖冬であることも手伝い、汗ばんできた。

「あーもう疲れたぜ」

 六階に到達したと同時にそう口にした。が、言った直後、同じ階の住人だろうか、角を曲がってきた、紫色に髪を染めた中年女性と目が合う。いまのを聞かれてしまっただろうか。恥ずかしくなり、目を伏せて女性の脇を通り抜ける。一人暮らしが何年も続いたからか、ことあるごとに独り言を言うようになった。

「おかえり。ごくろうさん」
「任務完了です」

 結衣が出迎える。今日はまだどこにも出かけていないらしい。<F8>と大きくプリントされたパーカーに、彼女が家用として外では巻かないマフラーを首に引っ掛ける、いつもの部屋着スタイルだ。部屋に上がり、こたつテーブルの上に、合計九個のドーナツが入った二つの袋を置く。

「ほお、これがカンザスドーナツですか」
「ラベルの写真ではどうってことなさそうだけどね。家でも作れそう。でもこれをいま、皆が求めてると」

 私たちはこたつテーブルに積まれたドーナツを眺める。<カンザスドーナツ>はアメリカのカンザス州で生まれたスイーツ。現在、世界的に流行している。プレーンドーナツをレモンシロップにじっくり漬けるのが特徴で、実際のカロリーはともかくシュガーやチョコレートをかけないところがヘルシーなイメージをもたらし、肥満大国アメリカで秋頃からブームとなった。その波は北米に留まらず、南米、欧州、アジア、中東地域にまで広がっている。日本でもこの十二月から本格的に流行りだした。今朝、読んだニュースサイトによると、南アフリカ共和国にも専門店がオープンしたという。

「カンザスって聞くと、ステーキを思い浮かべるけど、それとレモンドーナツとのギャップが面白いよね。あと袋じゃなくて缶詰なのも懐かしい感じ。捨てるのが面倒だけど」
「向こうではレモンが特産品なのかな。さっそく食べよ」と開封しようとした私を結衣が「待って」と制する。
「たぶん我々の経験上、ここで一つ食べると止まらなくなって食べ尽くしてしまう気がする」
「確かに。今夜は茜たちとご飯食べる約束だしね。小学生の頃から何度も同じ過ちを繰り返してるけど、いいかげんに過去から学ばないと」
「そうだよ、私はもう辞めちゃったけど、涼子は来年で大学卒業するんだし。ちゃんとした大人になりなさい。旅行業界は大変だって聞くぞ」と結衣が脅すように言う。
「はい、がんばります。カンザスドーナツはお預けってことで」

 出掛けるまでの間、結衣と他愛のない会話で何気ない夕方を過ごした。

× × ×

「それって訴えてもいいんじゃないの」
「これはもうしょうがないよ。新卒だけの問題じゃなくて、社員さんも減らすみたいだし」
「まあ、そうかもしれないけどさ。私もバイト先の映画館が苦しい状態で、お客さんが隣り合わないように席を一つ空けて、チケットを売ってる。だからキャパの半分しか売れない。どっちみち、来てくれなくなってるから同じようなものだけどね」

 今年に入ってから、新型のウイルス感染症が世界中で猛威を奮っている。日本も例外ではない。本日時点で国内の感染者数は七〇〇人を超え、亡くなった人は二十人以上もいる。国外では十四万人以上が感染し、五千人以上が命を落としたと報道されていた。普通の風邪に似た症状から始まるとされ、飛沫感染、接触感染によって感染すると考えられているらしい。ニュースで見聞きしただけだから、本当のことはよくわからない。私が実際に目で見て理解できているのは社会への影響だ。感染拡大の防止に向けた政府の要請もあり、休校や休業が相次いでいる。イベントは軒並み自粛。観光業をはじめとした多くの業種が経済的な打撃を受けた。私が内定をもらっていた旅行会社も連日のキャンセルと新規申込の激減により経営が逼迫、遂には内定を取り消されてしまった。大学の卒業式も中止となったものの、結衣が退学してからは面白くない大学生活だったから、それは特に何とも思わなかったが。

「にしても人減ったよね。このカフェもいつもは混んでて、座りにくいカウンター席しか案内されないのに、今日は四人掛けのテーブルを私ら二人で使っちゃってるし」と結衣が言う。私たちは土曜のランチタイムにも関わらず閑散としたカフェにいる。
「『不要不急の外出は控えて』って言うけど、基準がわかんないよね。私は年末でバイトを辞めたし、大学も卒業するし、そういう意味では一切外に出なくてもいいのかな。買い物くらいか」
「必要な物は買えてる? マスクもしてないし」
「うん。私の意識が低いのかもしれないけど、なんか別にいいかなって。結衣はちゃんとしてるよね」

 最近は外でしか結衣と会っていないから、食事をするとき以外はマスク姿の彼女しか見ていない。

「こっちは接客商売だからさ。気をつけないと。この状況でも来てくれるお客さんが本当にありがたいよ」
「マスクはいいとしてもトイレットペーパーとティッシュが不足してるのは不安だな。去年から花粉症にやられちゃったから、ちょうど時期だしね」
「花粉症の世界にようこそ」と結衣が両手を広げて、イヤミっぽく言う。映画ファンの彼女は恋愛ものよりアクション系を好む。その影響からか辛口の冗談をよく口にするが、侮辱や差別的な発言は決してしない。<F8>とプリントされた愛用の部屋着パーカーは『ワイルド・スピード』シリーズのグッズらしい。勧められて適当に一本だけ見たが、主人公は結衣が言っていた逞しい大男ではなく、ひょろひょろした高校生だった。日本が舞台の変な映画で、ナンパ男がチョコレートで日本人女性を引っ掛けようとするシーンだけはくだらなくてよく覚えている。あとで聞いたところによると、私が見た作品は番外編だったそうだ。

「あと一週間くらいはもつかな。そろそろ仕入れないと」
「テレビでは政府が『足りてる』と言ってるけど、実際無いからね。買い占めてんだよ、皆が」
「そういえば、バイトの時間大丈夫?」
「ヤバっ。シフト始まっちゃう。じゃあ、また連絡するから。不要不急の無職はまっすぐ家に帰るんだよ!」と毒づきながら結衣は店を出て行く。