二人だけの秘密 ~今月のイラスト~
「外回りお疲れさまでした、コーヒーを淹れましょうか? それとも日本茶?」
「ありがとう、コーヒー貰えるかな?」
「はい、ちょっと待っててくださいね」
俺は入社五年目の営業マン、杉山昌弘。
そして帰りを待っていてくれたのは水野詩乃、入社二年目、営業部で事務を担当している。
セミロングの黒髪、クセのない爽やかな顔立ち、服装もいたって地味、今時のケバい娘とは対極にいるような、ちょっと古風な雰囲気さえある女の子だ。
そんな娘に惹かれる男は少なくない、さほど大きな会社ではないので営業マンも十人だけなのだが、独身男の間で彼女に気がない男はいないんじゃないかと思う、いや、妻帯しているベテランだって惹かれてないということはないように見える。
そして、俺たち営業マンが外回りから帰るとコーヒーやお茶を淹れてくれる気配り、これはポイントが高い。
最初にコーヒーかお茶かを聞かれたが、俺がコーヒー好きなのを憶えていてくれて、でも営業先でコーヒーを何杯も出されることがありそんな時は少し胃もたれがして日本茶が欲しくなる、そんなこともちゃんと覚えていてくれるのだ。
彼女と上司も入れて十二人の営業部、その中で三つ年上の俺は結構年回りも良いから正直なところ彼女を狙っている、いや、狙うって変な意味じゃなくて、いつか嫁さんになってくれたらいいなという真面目な意味で……。
いつもは営業マンが社に戻るのを待って出迎えてくれる彼女だが、定時にさっと帰る日がたまにある。
「詩乃ちゃん、時々急いで帰る時があるけど、デートかな?」
俺はそんな無粋なことを聞きはしないが、ベテラン営業マンはそんなこともずけずけと聞く。
「ちょっと習い事があって」
「ふ~ん、何を習ってるの?」
「まあ、音楽関係です」
デートと言うことはなさそうだとは思っていた、月に一、二回だから頻度が低すぎる、俺が彼女のカレシだったら毎日でも誘いをかける、例えば毎週末デートしているとしても、週半ばには一回会わないではいられないと思うのだ。
だが習い事と言うのもちょっと怪しい、何かの教室に通っているとすれば月に一回と言うことはちょっと考えにくい、曜日が定まっていないも不自然だ。
(何か、あんまり知られたくない秘密があるのかな……)
当然気になるが、それをズバリと聞くほど野暮じゃないし、そこまで踏み込めるほどまだ親密にはなれていないから……。
《いいバンドを見つけたんだ、今度ライブに行かないか?》
ある日、大学時代からの友人、健人からメールが入った。
《いいぜ、いつだ?》
《いや、まだ次のライブの予定は決まってない、ブログをチェックして決まったら知らせる》
《なんてバンドだ?》
《お楽しみにしておいた方がいいぜ、ぶっ飛ぶのは保証するから》
《そうか、任せる、楽しみにしてるぜ》
健人は大学時代のバンド仲間だ、あいつがギターで俺がベース、就職してからはバンド活動もすっかりやらなくなってしまったが、健人とは趣味が合うから、あいつが勧めて来るなら間違いないだろう。
共通の音楽の趣味って言うのは六十年代ロック、その頃はまだロックが反抗の音楽であり、強烈なメッセージを発していた、粗削りだがパワーがあった時代だ。
その時代に生まれつかなかったのがなんとも残念、健人も俺もそれくらい六十年代ロックには傾倒している。
《来週の水曜だ、大丈夫か?》
健人からメールが入った時、仕事は少し忙しい時期だったが、俺は迷わずこう返した。
《親戚を一人殺してでも都合をつけるさ》
まあ、『親戚の葬儀』と言う嘘はまだ使っていない、まだ死んで貰える伯父や伯母はいくらもいるから大丈夫だろう。
「Ball & Chainか、いかにもブルースロックだな」
「そうだろ?」
ライブハウスの看板に書かれていたバンド名はジャニスの名曲にちなんだものだった。
ジャニスと言えばジャニス・ジョプリンだ。 ジャニス・イアンやジャニス・シーゲル、ジャニスと言う名のシンガーは他にもいる、そう珍しい名前ではないので他のジャニスをくさすつもりはないが、俺にとってジャニスと言えばジャニス・ジョプリンをおいて他にいない、健人も当然同じだ。
「ヴォーカルがさ、思い切りブルースなんだよ」
「ジャニスに似てるのか?」
「声質は少し似てるな、だが真似じゃないぜ、ジャニスのナンバーも歌うが、彼女のブルースになってる、ジャニスほど外に向かって発露する感じじゃないが、内に秘めたものを感じるよ」
「そりゃ楽しみだ」
ライブハウスは満員とは言い難かった、オールスタンディングだがひしめき合うという感じではなく、適度に隙間が空いている、今のご時世、ブルースロックと言うのは流行らないのだろう、だが、俺にとっては却って期待が膨らむ、格好つけただけのバンドやアナーキーを気取った独りよがりのバンドじゃないんだろうな、と思えるからだ。
ほどなくしてバンドのメンバーが現れ、演奏を始める。
「うん、いいな」
「だろ?」
テクニックを言えば上手いとは言えない、今時は小さい頃から楽器を習ったことがある者も多く、そう言ったミュージシャンは六十年代に比べてテクは遥かに高い、だがBall & Chainのメンバーはせいぜい高校生ぐらいから楽器を持ったクチに思える、そう、俺もそうであったように。
だが、ブルースフィーリングは色濃く感じる、粘って引きずるようなベース、溜めを利かせたドラム、すすり泣くようなギター……良い感じだ。
そして、ひとしきりバンドが演奏するとヴォーカリストが現れた。
「あっ!」
「どうした?」
「いや……人違いかも知れない」
現れたのは詩乃……だと思う。
髪は細かく三つ編みにしてそれぞれにビーズのような飾りをつけ、そっけない黒のタンクトップにだらりとした前空きベストを羽織り、ダメージを付け過ぎたデニムのタイトスカートに編み上げのサンダル……普段の詩乃の清楚で古風なイメージとはかけ離れているが……彼女の顔を見間違うとは思えない、間違いなく詩乃だ。
「驚いたな」
「なんだ? 知り合いか?」
「ああ……」
健人は説明が欲しかったのだろうが、詩乃が歌い始めると俺は言葉を失った。
魂を絞り出すかのような詩乃の歌に思い切り引き込まれたのだ。
健人もちょっとの間怪訝そうな顔をしていたが、直に引き込まれて忘れたようだ。
聴衆も大騒ぎするでもジャンプし続けるでもなく、体を揺らしながら曲に聴き入り、曲管には盛大な拍手と歓声……年齢層もライブハウスの客としては少し高いようだ。
一時間余りのライブの間、ライブハウスの中は五十年ほども時を遡ったかのようだった。
ただ、俺は頭の片隅でずっと考えていた。
普段の詩乃は大人しくて、優しくて、よく気が付く、申し分のない『良い娘』だ、彼女の中にブルースロックに託さなければならない鬱屈した心情があるようには思えないのだ、一体何が彼女にここまで歌わせるのだろうか……と。
「杉山さん……」
翌日、いつものように外回りから帰ると、詩乃はコーヒーを淹れてくれたが、それをデスクに置く時小声で話しかけて来た。
「昨日……ライブハウスにいらっしゃいました?」
「ありがとう、コーヒー貰えるかな?」
「はい、ちょっと待っててくださいね」
俺は入社五年目の営業マン、杉山昌弘。
そして帰りを待っていてくれたのは水野詩乃、入社二年目、営業部で事務を担当している。
セミロングの黒髪、クセのない爽やかな顔立ち、服装もいたって地味、今時のケバい娘とは対極にいるような、ちょっと古風な雰囲気さえある女の子だ。
そんな娘に惹かれる男は少なくない、さほど大きな会社ではないので営業マンも十人だけなのだが、独身男の間で彼女に気がない男はいないんじゃないかと思う、いや、妻帯しているベテランだって惹かれてないということはないように見える。
そして、俺たち営業マンが外回りから帰るとコーヒーやお茶を淹れてくれる気配り、これはポイントが高い。
最初にコーヒーかお茶かを聞かれたが、俺がコーヒー好きなのを憶えていてくれて、でも営業先でコーヒーを何杯も出されることがありそんな時は少し胃もたれがして日本茶が欲しくなる、そんなこともちゃんと覚えていてくれるのだ。
彼女と上司も入れて十二人の営業部、その中で三つ年上の俺は結構年回りも良いから正直なところ彼女を狙っている、いや、狙うって変な意味じゃなくて、いつか嫁さんになってくれたらいいなという真面目な意味で……。
いつもは営業マンが社に戻るのを待って出迎えてくれる彼女だが、定時にさっと帰る日がたまにある。
「詩乃ちゃん、時々急いで帰る時があるけど、デートかな?」
俺はそんな無粋なことを聞きはしないが、ベテラン営業マンはそんなこともずけずけと聞く。
「ちょっと習い事があって」
「ふ~ん、何を習ってるの?」
「まあ、音楽関係です」
デートと言うことはなさそうだとは思っていた、月に一、二回だから頻度が低すぎる、俺が彼女のカレシだったら毎日でも誘いをかける、例えば毎週末デートしているとしても、週半ばには一回会わないではいられないと思うのだ。
だが習い事と言うのもちょっと怪しい、何かの教室に通っているとすれば月に一回と言うことはちょっと考えにくい、曜日が定まっていないも不自然だ。
(何か、あんまり知られたくない秘密があるのかな……)
当然気になるが、それをズバリと聞くほど野暮じゃないし、そこまで踏み込めるほどまだ親密にはなれていないから……。
《いいバンドを見つけたんだ、今度ライブに行かないか?》
ある日、大学時代からの友人、健人からメールが入った。
《いいぜ、いつだ?》
《いや、まだ次のライブの予定は決まってない、ブログをチェックして決まったら知らせる》
《なんてバンドだ?》
《お楽しみにしておいた方がいいぜ、ぶっ飛ぶのは保証するから》
《そうか、任せる、楽しみにしてるぜ》
健人は大学時代のバンド仲間だ、あいつがギターで俺がベース、就職してからはバンド活動もすっかりやらなくなってしまったが、健人とは趣味が合うから、あいつが勧めて来るなら間違いないだろう。
共通の音楽の趣味って言うのは六十年代ロック、その頃はまだロックが反抗の音楽であり、強烈なメッセージを発していた、粗削りだがパワーがあった時代だ。
その時代に生まれつかなかったのがなんとも残念、健人も俺もそれくらい六十年代ロックには傾倒している。
《来週の水曜だ、大丈夫か?》
健人からメールが入った時、仕事は少し忙しい時期だったが、俺は迷わずこう返した。
《親戚を一人殺してでも都合をつけるさ》
まあ、『親戚の葬儀』と言う嘘はまだ使っていない、まだ死んで貰える伯父や伯母はいくらもいるから大丈夫だろう。
「Ball & Chainか、いかにもブルースロックだな」
「そうだろ?」
ライブハウスの看板に書かれていたバンド名はジャニスの名曲にちなんだものだった。
ジャニスと言えばジャニス・ジョプリンだ。 ジャニス・イアンやジャニス・シーゲル、ジャニスと言う名のシンガーは他にもいる、そう珍しい名前ではないので他のジャニスをくさすつもりはないが、俺にとってジャニスと言えばジャニス・ジョプリンをおいて他にいない、健人も当然同じだ。
「ヴォーカルがさ、思い切りブルースなんだよ」
「ジャニスに似てるのか?」
「声質は少し似てるな、だが真似じゃないぜ、ジャニスのナンバーも歌うが、彼女のブルースになってる、ジャニスほど外に向かって発露する感じじゃないが、内に秘めたものを感じるよ」
「そりゃ楽しみだ」
ライブハウスは満員とは言い難かった、オールスタンディングだがひしめき合うという感じではなく、適度に隙間が空いている、今のご時世、ブルースロックと言うのは流行らないのだろう、だが、俺にとっては却って期待が膨らむ、格好つけただけのバンドやアナーキーを気取った独りよがりのバンドじゃないんだろうな、と思えるからだ。
ほどなくしてバンドのメンバーが現れ、演奏を始める。
「うん、いいな」
「だろ?」
テクニックを言えば上手いとは言えない、今時は小さい頃から楽器を習ったことがある者も多く、そう言ったミュージシャンは六十年代に比べてテクは遥かに高い、だがBall & Chainのメンバーはせいぜい高校生ぐらいから楽器を持ったクチに思える、そう、俺もそうであったように。
だが、ブルースフィーリングは色濃く感じる、粘って引きずるようなベース、溜めを利かせたドラム、すすり泣くようなギター……良い感じだ。
そして、ひとしきりバンドが演奏するとヴォーカリストが現れた。
「あっ!」
「どうした?」
「いや……人違いかも知れない」
現れたのは詩乃……だと思う。
髪は細かく三つ編みにしてそれぞれにビーズのような飾りをつけ、そっけない黒のタンクトップにだらりとした前空きベストを羽織り、ダメージを付け過ぎたデニムのタイトスカートに編み上げのサンダル……普段の詩乃の清楚で古風なイメージとはかけ離れているが……彼女の顔を見間違うとは思えない、間違いなく詩乃だ。
「驚いたな」
「なんだ? 知り合いか?」
「ああ……」
健人は説明が欲しかったのだろうが、詩乃が歌い始めると俺は言葉を失った。
魂を絞り出すかのような詩乃の歌に思い切り引き込まれたのだ。
健人もちょっとの間怪訝そうな顔をしていたが、直に引き込まれて忘れたようだ。
聴衆も大騒ぎするでもジャンプし続けるでもなく、体を揺らしながら曲に聴き入り、曲管には盛大な拍手と歓声……年齢層もライブハウスの客としては少し高いようだ。
一時間余りのライブの間、ライブハウスの中は五十年ほども時を遡ったかのようだった。
ただ、俺は頭の片隅でずっと考えていた。
普段の詩乃は大人しくて、優しくて、よく気が付く、申し分のない『良い娘』だ、彼女の中にブルースロックに託さなければならない鬱屈した心情があるようには思えないのだ、一体何が彼女にここまで歌わせるのだろうか……と。
「杉山さん……」
翌日、いつものように外回りから帰ると、詩乃はコーヒーを淹れてくれたが、それをデスクに置く時小声で話しかけて来た。
「昨日……ライブハウスにいらっしゃいました?」
作品名:二人だけの秘密 ~今月のイラスト~ 作家名:ST