廃駅
運転手には寂れたホームの上、線路ぎりぎりまで前に出ている私など目に入らない様だ。
風圧が私の頬を弄り髪を崩すが電車は速度を落す素振りさえ見せはしない――。
その日は朝から酷く忙しい日だった。正確には前週末から忙しさは継続していて、週が明けて三日が過ぎた木曜になっても事態の収束がいつになるのか、私には想像がつかなかった。
とある大口の顧客の注文の品が『頼んだ物と違う』と言われたのだ。
「君、早急に商品を入れ替えてくれなきゃ困るよ」
相手先の専務はそれを私には言わず、私の上司に電話してきて伝えた。
当然だ、注文はいつだって私が薦める商品のリストに専務が注文数を書き込むという形で行われている。つまり、頼んだ物が違うなどという事は有り得ないのだ。
大方、先週のテレビ番組で取り上げられた話題の品物を我が社で扱っているという事を知り、難癖をつけてでも手に入れたいと考えたのだろう。
その話題の商品は、先の注文を受けた時にも提案していたのだが『そんなものは流行らない』とばっさり斬り捨てられたものなのだ。
しかし、そんな事情は解っているくせに私の上司は相手の言い分を聞き入れてすぐさま商品の入れ替えを命じたのである。
元々生産者が少なく、生産量も少ないその商品は、高級品で月に百個にも満たない販売量しかなかった。一度に大量の注文を受けても対応するのは難しい。
それを、テレビで取り上げる一ヶ月も前に千個の注文をしたなどと、厚顔無恥にも程があるというものだ。
しかし、大口顧客との関係を崩したくない上司は私の言う事には耳を貸さず、あろう事か、失敗したら左遷させる事まで仄めかしたのだ。
そして、結果としては要求された商品の半分も揃えられなかった。
押さえていた商品は、放送の翌日には次々と注文が入り、全て捌けてしまい。二月先の生産分までが予約で押さえられてしまったのである。
私はあらゆる手を尽くし、殆ど利益を生まない額まで仕入れ値を上げて商品を掻き集めた。
然るにその日は専務の好きな高級洋酒を携えて、先方に詫びを入れて来たのだ。
専務はそんな私に『今度の事は水に流すので、これからはしっかりやってくれ』と悪びれもせずに言ったのだ。
私は心身共に疲れ切って電車の吊り革に掴まっていた。品川から三浦半島に向かう私鉄は夜遅くにも拘らず乗客で一杯だった。夏の手前の夕空は厚い雲に覆われて流れる景色も重く湿っているようだ。
かなりの速度で走る電車は時々大きく揺れて乗客を一斉にぐらつかせる。吊り革は根元からギシギシと不快な音をさせた。
横浜駅を出て直ぐに、唐突に電車が止まり車内のアナウンスがあった。
「地震があった為、緊急停止いたしました――」どうやら、路線と設備の点検が終わるまで、このまま缶詰にされるらしい。
窓外を見れば、そこは遥か昔に廃駅となって朽ち果てそうなホームだけが辛うじて残っている場所だった。
毎日使う電車で見かける風景が気になって、数年前にインターネットで調べた事があった。
太平洋戦争の空襲で被害を受けたものを保存してあるとの事だった。私は以前から――特に仕事で不快な疲労を貯め込んだ時に――この駅の残骸を同病相憐れむ様な気持ちで見送って来たのだった。
その駅の目の前で今、電車が緊急停止しているのである。
私は品川駅で飲み干したビールのロング缶の後押しもあってか、乗客を掻き分けると、力任せにドアを押し開き車外に飛び出した。車内からは年配の男性の声で、早く戻ってきなさい、と言っているのが聞こえたが、私はそれを無視した。
そして、ざわざわと聞こえた車内の喧噪は何事もなかったかの様に閉じられたドアと供に私の前から足早に去って行ったのだ。
私は降り始めた霧雨に頭を冷やされながら去って行く電車の尾灯をぼんやりと眺めたのである。
後で考えると、どうしてあんなに簡単にドアが開いたのか、私にはわからない。
どうしたことかあれ依頼、この駅に電車が止まる事はなかった。
私は焼き尽くすような日差しの夏が終わって、高架の駅から見渡す町並みに秋の気配が見え始めてもこの駅から出る事が出来なかった。
繰る日も繰る日も目の前を通過する電車に手を振り声を上げたが、誰も私には気づかない様だ。
目の前を轟音を伴って赤い電車が通り過ぎてゆく。
運転手には寂れたホームの上、線路ぎりぎりまで前に出ている私など目に入らない様だ。
風圧が私の頬を弄り髪を崩すが電車は速度を落す素振りさえ見せはしない――。
だがしかし、それは現実の出来事なのだろうか。
豪速で駆け抜ける電車の質量も、音も、風圧でさえ今の私には現実のものとは思えない。
そして赤い尾灯を見送った私は朽ちかけた壁に背中を預けてコクリートが細かく剥げたホームへ腰をおろした。
おわり