Clean getaway
「僕は、すぐに息切れするし、空気の悪いところに行くと、すぐ調子が悪くなるんだ。お母さんがいたころはよかったのかもしれないけど、この家は広すぎるし。お父さんは、再婚だけはしないって、僕が聞いてもないのに、よく言うんだ」
男はスーツの胸ポケットに手を入れると、鍵を取り出して手に握りしめた。そして、言った。
「お母さんは、どんな人だった?」
初めてはっきりと質問されたことに気づいて、一翔は目を丸くした。それまで誰にも話す気すらなかったようなことが、頭に次々と浮かんで列を成した。
「お母さんは、小説家だった。長編を書いている途中で、事故で死んだんだ。僕が二歳のときだったから、写真でしか知らないんだけど」
「どんな話を、書いてたんだ?」
男がそう聞くのを待ちきれないように、一翔はベッドサイドに置いた本を持ち上げた。
「原稿は途中で終わってるけど、お父さんが製本してくれたんだ。でも、すごい中途半端なところで終わってる」
男が黙って耳を傾けていることに気づいた一翔は、最後のページを開いて、音読した。
「そのとき背後で不快な音を立ててドアが開いた。恐る恐る振り向き、目をあげると、戦慄した_。ここで終わり。伝染病が流行って、人が次々死んでいく話だよ。でも、極限状態に置かれた人間の方が怖いって話なんだと思う。このドアを開けた人が誰か、今でも読んでて分からないんだ」
男の目が一瞬鋭くなり、その意識は全て窓の外に向いたようだった。
「どうしたの?」
「車のエンジン音が聞こえる」
男はそう言って、ハードケースの鍵を開けた。一翔は、その後ろ姿に言った。
「ドアが後ろで開くって、怖いよね」
男は返事より前に、部屋の壁とほとんど同色に塗られたAKMを取り出した。その慣れた手つきが、数キロあるライフルを紙切れのように軽々と扱い、一翔はその仕草に、今までの警備員にはない冷気を感じ取った。長い銃身の先に取り付けられたサプレッサーを指で弾くと、ようやく言った。
「初めからドアの方を向いていれば、怖くない。ドアを開けたときに驚くのは、相手の方だよ」
一翔は、その言葉をしばらく噛み砕いた後、いたずらっぽい笑顔でドアに顔を向けた。
「でもさ。エコー、今ドアに背中を向けてるけど?」
「それでお金がもらえるなら、そうするよ」
男は初めて、一翔の目を見て笑顔を見せた。
「ねえ、警備じゃないよね。みんなもっと、面倒そうに銃を扱ってた」
「契約のことは、話せない」
今までのやり取りが、全て振り出しに戻ったように感じて、一翔は顔をしかめた。
「ここは、僕の部屋だよ。僕のルールに従ってよ」
男はその理屈に納得したように、右手を安全装置に沿わせたまま、小さく息をついた。
「直接、依頼人と会ったわけじゃない。でも、君の言う事情は、ある程度聞いているよ」
「お父さんと、会ったことないの?」
一翔が思わず大きな声で言うと、男はそれが自分でも信じられないことのように、うなずいた。
「フリーランスってのは、そういうものだよ。これが仮に、おれを殺すためのお膳立てだったとしても、おれは逃げるわけにはいかない」
この男が簡単に死ぬとは思えなかったが、一翔は、一瞬その場面を想像した。銃を手に取っている以上、最後は銃によって殺されるのだろうか。
「人は、運命から逃げられないと思う?」
一翔が言うと、男は首を横に振った。
「いいや、逃げられるよ」
「でも、今……」
「おれは、好きでこうしてるんだ。誰かに強制されてるわけじゃない」
ついさっき、目を合わせて笑顔を見せたときまで時間が巻き戻ったように感じて、一翔は小さく息をついた。
「それが、フリーランスのいいとこ?」
「まあ、組織にいた方が、色々楽なんだけどね。このライフルを塗るのは、大変だったよ」
暗めのベージュに塗られたライフルを構えると、男は窓から差し込む光の距離を再び測った。
「さっきの話、ドアを開けたのは誰だと思う?」
一翔は首を傾げた。
「主人公は女の人だったけど、夫と娘がいて、どちらかが感染していると思ってたんだ。で、部屋に閉じこもっていると、ドアが開く。だから、夫か娘のどちらかだと思う。でも、戦慄したってことは、どちらにせよ、感染していたんだ」
男は、銃身の長さの分だけ、さらに後ろへ椅子を下げると、言った。
「開いたドアの先には、誰もいなかったかもしれない」
一翔は、考えもしなかった可能性を提示されて、思わず笑った。
「新しいね。それだと、どういう解釈になるの?」
「たまには、外に出てみなさいとか、そういうことかな」
男はそう言って、安全装置を下げた。パチンと弾いたような音が二回鳴り、その右手がグリップへと戻った。一翔は、ふと思い出したことが突然宙に現れたように、何もない空間を見つめた。
「例の叔父さんに、あまり動かないと、蒲鉾になるって言われたことがあるんだ。食べたことないんだけど、魚なんだよね?」
車のエンジン音が、一翔の耳にも届いた。男はレシーバーの上面に取り付けられたショートスコープを覗き込み、片眼を閉じた。そして、言った。
「おれは殺し屋だ。叔父さんが来たら、敷地内で殺せと言われている」
その言葉に、一翔は体を強張らせた。どこか頭の中でそのような疑念を持っていたが、現実になった途端、現実味を失った。男は引き金に指をかけたが、閉じていた片眼を開いた。
「叔父さんは、何か格闘技をやっていたか?」
一翔はその質問が自分に向いているということに遅れて気づき、慌てて記憶を呼び起こした。
「あ……。確か、若い頃、相撲部屋に入ってた」
男はライフルの安全装置をかけた。一度固めた手を大きく開くと、瞬きの回数を抑えるように顔をしかめながら、言った。
「誰も、君のことを諦めてなんかいない」
男はハードケースにライフルを収めると、二度と見たくないものに封をするような仕草で、鍵をかけた。依頼人は確かに、咲田和市と名乗った。唯一気にかけていたのは、依頼人との間に結ばれる、守秘義務について。依頼内容の中でも、とりわけ協調されていた言葉。『家の人間も信用できない。だから、仕事が終わるまで、誰とも話すな』
男は、フリーランスとして生きるために、全ての依頼を忠実に守ってきたが、その一つだけを破った。
呆気に取られたまま、何も言えないでいる一翔と目が合い、男は口を開きかけたが、すぐに目を逸らせた。玄関のドアが開く音がして、二人分の足音が家の中に響いた。
一翔は、少し緊張した面持ちで言った。
「二人、入ってきた」
男はうなずいた。力士は、稽古をせずにさぼる連中のことを『かまぼこ』と呼ぶ。それは、相手を馬鹿にした表現だ。病気で動けない少年にかける言葉じゃない。それに、元力士なら、歩き方ですぐに分かる。車から降りてきた二人の歩き方は、どちらも、長年椅子に座って仕事をしてきた人間のそれだった。もはや、理論的な結論は一つしかなかった。顔の見えない依頼人は、咲田和市じゃない。武次の方だ。後腐れのない殺し屋の手で、父親を殺させようとした。警備員の契約を切ったのも、武次だと考えて間違いないだろう。その時点で、始まっていたのだ。
階段を上がってくる足音が聞こえてきて、一翔は言った。
作品名:Clean getaway 作家名:オオサカタロウ