リピート
――宏美――
平成十年三月――
私はアレックに会うため厚木の基地に行った。行っても門前払いだった。しかし私は結婚するかもしれないんです。アレックの旦那になるかもしれないんです。そう守衛に話すと、守衛は決まり悪そうに言った。
「アレックを私も知っている。プレイボーイだということもね。君は知っているのか?アレックは既婚者だぞ。つい最近アレックはアメリカに帰った。彼には家族がある。そういうことを君は知っているのか?」
私は愕然とした。そういうことか。
数カ月が経ち七月、私は子供をおろさなかった。妊娠九カ月。私のお腹も妊婦のがそうであるように、本当に大きくなってきた。歩くときは大変で、電車に乗るときは席を譲ってもらう。会社に行っても、
「えっ、おめでた?結婚したの?」
と聞かれると、何と答えたらいいか分からない。だから私はずっと休職という形をとっている。そして子供が産まれたら……
貯金も底を突こうとしている。病院にも行っていない。毎日東京中の公園に行ったりして過ごした。あと神社巡りもして、とくに、「子育大願」
と言われる神社にはよく行った。病院に行かなくても、無事子供が産まれてくるように。そして子供が産まれたら、一目見たら……
私はその日北区の王子神社にお参りに行った。まず飛鳥山公園を散歩し、腰を下ろした。そして昼ご飯は赤羽駅に行って、定食を食べた。毎日のようにすごい食欲だ。赤羽駅近辺の赤羽公園で時間をつぶした。
子供たちとその母親たちが、幸せそうに公園で遊んでいる。噴水に近づく子供に、
「危ないでしょ。パパが買ってくれたお洋服汚れちゃうよ」
と、母が声をかける。睦ましい光景だ。私にはそういった幸せがない。
夜になっても、今日は帰る気分にならなかった。星を見て、
“私騙されてたのかなあ”
そう思いたくないことが、頭をよぎる。そして公園のトイレに行く。
そのときだった。
私は猛烈な痛みに襲われた。痛い。これって陣痛?気を失いそうな、恐ろしい痛みだ。私は無意識にズボンなど下ろしていたんだろう。一時間もたたないうちに、私は悟った。気を失う直前“産まれる”
「オギャア、オギャア、オギャア」
ああ、この子が、この子が私の子、一目見るだけでよかった。一目見て一緒に死のうと思っていた。でも実際赤ん坊を見て、この小さな手を見て、小さな足を見て、尊い子供、この子に命が宿っている。
“私はこの子を絶対に殺してはいけない”
そう思った。足が思うように動かず、薄らいだ意識の中、声がする。
「ねえ、ちょっと、赤ちゃんと、お母さんがいるわ」
「だれか救急車。子供は産まれてきて間もないみたい」
「どうしよう。このままじゃ、赤ちゃんが死んじゃう。そうだ。宏樹。そこにいるでしょ?宏樹医者だから呼んで。ここ。ここ」
宏樹という男だろうか。薄らいだ意識の中でしきりに指揮を執っているのが聞こえる。
「まず体温計を持ってきて、同時に一一九番に電話するんだ。しかし住所はここではなく、銭湯の藤の湯だ。もう閉まってるはずだが、開けてもらえ。救急車に藤の湯へ行くように電話しろ。一番街の寿司屋を片っ端から聞いて、まだ使ってない、盥を藤の湯に持っていくようにしろ。赤ちゃんを洗いながら、下がっている体温をあげるんだ。へその緒ははさみで俺が藤の湯で切る。すずらん通りに百円均一の店にあるはさみと、ありったけの未使用のタオルを持っていけ」
「オギャア、オギャア、オギャア」
「子供の体温が二八度だ。急げ」
「宏樹。お待たせ。早く車に乗って」
私と赤ん坊は銭湯に運ばれたようだ。
「お母さん。大丈夫ですか?お父さんは、この赤ちゃんのお父さんは今どこに?」
私は言った「この子に父はいません。私捨てられたんです。この子の父はアメリカで家族を持ち……」みんな怪訝そうな顔をした。
みんな必死に赤ちゃんをタオルで巻きシャワーでお湯をかける。しばらくして救急車が来た。私だけが救急車に乗せられ、宏樹というのだろうか、その医者と思われる男と救急隊が何やら話し合っている。赤ちゃんは救急車に乗せず、そのまま、体を温め、タオルを交換しては、温めている。
「オギャア、オギャア、オギャア」
それから、三十分が経っただろうか、救急隊が叫ぶ。
「赤ん坊の体温が三十六度になった。救急車を出動する」
私たちは北区の明理会中央総合病院という病院に運ばれたようだ。病室の出入り口付近で、先ほど私を助けてくれた商店街の人たちが話し合っている。
「もうテレビで報道されている」
「俺は黙っていた方がいいと思うんだ」
「私も」
「子供が公衆トイレで生まれ、父もいないという。普通の子供ならともかく、こんな特徴的なハーフの子は……」
「そう、もし子供が大きくなって事実を知ったら、そのせいで歪んだ子供に育ってしまったら」
「よし。このことを知っているのは私たちと志茂すずらん通りの商店街の人と、一番街の人だけだな。みんなで集まって、誓うんだ。絶対このことは秘密にするって。これからもこの秘密は生涯死守するって」
しばらくすると、商店街の人は帰り、看護婦さんがベッドに来て赤ちゃんを抱いて私の方に来る。
「お母さん。赤ちゃんはご無事ですよ。ほらこんな元気な赤ちゃん」
「この子が、私の子供……この子が……」
看護婦は私に見せてまた子供を連れて戻って行った。私ひとりになり、テレビを点けた。ニュースで私たちのことが取り上げられている。
「えー、本日、北区、赤羽駅周辺の赤羽公園で産まれてきた赤ちゃんとその母親が、発見され病院に運ばれました。今現在、赤ちゃんもその母親も無事のようです。ええ、発見した北区赤羽駅周辺の住民は、警察の質問には答えるものの、我々報道陣に対しては、すべての質問に対して、黙秘するといった、黙秘の姿勢を続けているようです。ええ。スタジオには医師の間宮さんに来ていただいています。ええ、どうでしょう、間宮さん、赤ちゃんが公園で発見されたということですが……」
「ええ、赤ちゃんは低体温という非常に危険な状態でした。しかしこの赤羽駅周辺の住民の対応が非常によく奇跡的に助かったと」
「ええ。そうですね。今日はこの住民の対応について、いろいろ聞きたいことがあるのですが、住民は依然として黙秘を通しているということですが……」
一週間が経ち子供はまだ入院しているが、私は退院した。そして北区の商店街の寿司屋に入った。寿司屋の女の人は私を見て、
「あなたは…… ちょっと待って、上で話しましょう」
私は二階に通された。おかみさんが言う。
「出産おめでとう。あなたお母さんなんだからね。みんな公衆トイレで生まれたことは内緒にするって。ハーフの子供じゃ、子供が大きくなって、自分のニュースを知っちゃうでしょ。知らない方がいいと思って。大丈夫よ。赤ちゃんが置き去りとかじゃないんだから。いずれこのニュースは風化する。だから赤ん坊をちゃんと育てなさいよ。お父さんいなんだって?」
「旦那は、旦那と思われるアメリカ人は最初から遊びだった……でも私は愛していた。本気で愛されていると思ってた。一目子供を見よう。子供を見たら子供と一緒に死のうと……」
私はうつむいて涙がこぼれた。