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火曜日の幻想譚

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30.蕎麦猪口



 蕎麦猪口は素晴らしい。

 ちんまりしていて、ラブリーなスタイル。それでいて、どっしりと地に足がついたようなたたずまい。何気なく入ったお蕎麦屋さんのそれを見て、私はやっと蕎麦猪口の素晴らしさに気がついた。その日から、蕎麦猪口コレクターという肩書きを背負って、私は生きていくことにしたのだった。

 例えば、その生活ぶりはこんな感じだ。自分が旅行に行くことがあれば、土産に蕎麦猪口を探す。というより、もはや蕎麦猪口を探すために旅行をしているといっても過言ではない。友人が旅行に行くことがあれば、お金を渡して蕎麦猪口を購入してくるよう頼み込む。迷惑そうな顔をする者もいるが、もはやなりふり構っていられない。さらには、数分おきにネットのオークションサイトなどをチェックし、自分が所有していない蕎麦猪口が出品されてはいないかと探し回る。
 そうやって、蕎麦猪口の量、質ともに充実させる毎日を過ごしていた。だがある日、はたと行き詰まってしまったのだ。

 蕎麦猪口という名なので、その使い道は蕎麦つゆを入れるものだけと思われがちだ。しかし、その用途は意外に思うほどたくさんある。例えば、日本酒を注ぐ本来の猪口としての使い道。アイスコーヒーなど冷たい飲みものを入れるのも、お洒落でいい。さらに、箸休めを入れる小鉢としての役割も可能だ。それだけではない。アイス等のデザートも入れられる。おやつのスナック菓子をちょっと入れるのにも使える。食卓に関することだけではない。その気になれば、一輪の花を飾ることだって無事に務めおおせるし、ちょっとした小物入れとして使うことだってできるのだ。
 このように、そのポテンシャルを遺憾なく発揮すれば、蕎麦猪口というものは様々な場面で持ち味を出せる、まさに名バイプレイヤーたる素質を持ち合わせていると言えよう。
 だが、私がこれまで買い揃えた蕎麦猪口には、先に挙げた用途全てに対応したものは見当たらない。大きさや模様、形状などから考えて一つや二つの用途に、当てはまるものがある程度だ。帯に短し襷に長しという言葉の通り、なんらかの用途に向いていればまた別の用途に向かない。そんなものばかりなのだ。

 困り果てた私は、すべての使い道にバランスよく適合する理想的な蕎麦猪口を世に現出させるため、陶芸教室に通い始めた。もう市販の、プロの作ったものはあてにできない。自ら手で作り上げるしかないのだという思いでいっぱいだった。
 それから長い月日を経て、ついに私は私の理想とする蕎麦猪口を完成させた。その間、私は長く付き合っていた彼氏と夫婦という間柄になり、元気な男の子も授かった。社会における立場は変われど、理想とする蕎麦猪口に対する思いは一ミリも変わらなかった。

 そして今日、初めてこの蕎麦猪口を使って蕎麦を食べる。丁寧に蕎麦を茹で上げ、ざるにとって冷やし、これまた丁寧に水を切る。もちろん、蕎麦湯も忘れない。
 そして、蕎麦のざるが食卓に並ぶ。もう待ちきれないとばかりに、自作の蕎麦猪口に蕎麦を浸して思いきりすする。鼻に抜けて行く蕎麦とわさびの香り。冷たくて気持ちの良い喉越しに、海苔やゴマといった薬味のアクセントが絡みつく。
 旦那も蕎麦をすすり上げ、おいしいねと言ってくれる。家のことや仕事そっちのけでろくろを回しているとぼやかれていたが、少しは汚名を返上できただろうか。
 息子は、今日が蕎麦デビューだ。先ほど柔らかくゆでた蕎麦を一口あげて様子を見ていたが、アレルギーの心配はなさそうだ。

 私は、最上の信愛を持って自作の蕎麦猪口三つと、その奥にいる家族を見つめる。これから、この私の理想の蕎麦猪口を様々な用途で使っていきたい。蕎麦猪口の力はこんなもんじゃない、ということを伝えていきたい。そして、幸せな家庭を築いていきたい。

 私と、蕎麦猪口との生活はまだまだこれからだ。


作品名:火曜日の幻想譚 作家名:六色塔