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年末年始

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3:隣客



 一時間ほど後、克樹は車中の人となっていた。
 先にも述べたように、どうしても後ろの人の無言の圧力を感じてしまう敏感な性質の克樹は、券売機前での操作を極力少なくするため、常に自由席で切符を購入していた。今回も然りである。しかし、今の時節は帰省ラッシュ、自由席など瞬時に埋まってしまう。だが、克樹はここで時刻表を確認し、敢えて40分ほど時間を潰した。こうすればガラガラの始発に有り付ける。この時間をずらす作戦が功を奏し、克樹は無事に窓際の席の一角を占めることができたのだった。
 車窓から景色を眺めるのが好きな克樹は、食べ終わった空の弁当箱を席下方の網に放り込み、ペットボトルのお茶に時折口を付けながら窓の外を眺めていた。車窓からの景色が好きな人の中には、架空の忍者を走らせて楽しむ人が相当数いると聞くが、克樹はそのようなことはしなかった。実は何度か試したのだが、どうもしっくり来なかったのである。
 では、克樹はどう楽しむか。建ち並ぶ家々の住人や田畑を耕す人。彼らの心情に思いを馳せるのだ。やはり新幹線の騒音に悩むのだろうかとか、でも小さい子のいる家は新幹線が通るたびに大喝采だろうなとか、次の新幹線が来たら今日の畑の作業は終わりにすんべとか言っているのかなとか、新幹線の突風で農作物の出来が左右されるのだろうかとか、こんな取り留めのない、というより少々妄想じみた思考に浸ることを殊の外愛しているのだ。
 今日もそのような考えを脳内に渦巻かせながら、ご機嫌で外を眺めていた克樹だったが、突如このお楽しみの時間を阻む者が現れた。克樹が乗り込んだ数駅先の駅で乗り込み、克樹の隣席に座した者。中年のサラリーマンと思しきその男は、新幹線が動き出す少し前にビールの缶をプシッと開け、イカの燻製を肴に一杯やり始めたのである。それだけならまだ良い。克樹自身もそれほどいける口ではないが、酒を飲むことはある。においはするが、こちらも先ほどまで弁当を食べていた身である。言わばお互い様というやつだ。だがこのサラリーマン、自覚があるのかそうでないのかは分からぬが、咀嚼音が周囲に響き渡るタイプの男だった。クチャラーと呼ばれる人種である。
 彼の咀嚼音は、景色を見て悦に入っていた克樹の興を削ぐのに十分すぎる破壊力だった。夢の世界から否応なく醜悪な現実へと引き戻されてしまった克樹は、取り敢えず手持ち無沙汰を解消するため、ペットボトルのお茶へと手を伸ばす。だが咀嚼音の不快さのせいで、自分自身のペットボトルに口を付ける気すら起こらなかった。
 こういう時、このサラリーマンに咀嚼音を注意できるだろうか。特に腕っぷしが強そうな訳でもないサラリーマンとは言え、我慢してしまう人が大半なのではないだろうか。いわんや克樹をやである。気の小さい彼はこういう時、いや、自分の主張を前面に押し出しても良い時ですら、それがなかなかできない男なのである。
 仕方なく克樹は隣から聞こえてくる咀嚼音に塗れながら、座席の正面を凝視する。きっとこのサラリーマンも辛い立場なのだろう。こんな年末にまで、新幹線に乗り込んでいるところを見ると、出張だろうか。もしかしたら日帰りでの強行スケジュールかもしれない。そんな身空で、帰省中の者たちに囲まれているのだ。飲まなきゃやってられない気持ちも、分からなくもないではないか。それにこの咀嚼音。これだって考えようによれば、今まで周囲の者が誰も指摘してくれなかった結果だとも取れる。恐らく叩き上げの彼は、食事もほとんど一人で摂って、ひたすら真面目に仕事に邁進してきたのだろう。それ故、彼は自身が周囲の人々を不快にさせていることを、誰からも指摘されなかったのかもしれない。とすれば、この不快すぎる咀嚼音は、ある意味彼の『愛の叫び』なのではないだろうか。誰かこの咀嚼音を指摘してください、私に咀嚼音を指摘することで、あなたの愛を分け与えてほしいのです、と。もしかしたら、そんな深い意図でもってこの咀嚼音が発せられている可能性は否定できないのではないだろうか。もっとも、自分はそれに応える気は毛頭ないが……。
 克樹は、前の座席の背もたれを凝視しつつ、そんな風に考えていた。否、このように考えていなければ、クッチャクッチャと鳴り響く音に耐えられなかったのだ。


作品名:年末年始 作家名:六色塔