いとこ
1
ねえ、貴方たちって便利ね。いつか誰かにそんなことを言われたことがある。私達のこの外見が便利だったことなんてあまりなかったから揃って笑いながら「そうですね、入れ替わりくらいですけど」と言っていたっけ。
「おかえり、花実」
「ただいま」
呼び鈴も鳴らさずドアノブに手をかける。予想通り、ドアは開いていた。けれど彼も私がまるで扉を開けることを予想していたかのように立っていた。腕を広げて、私がそこに飛び込むことを待っている。驚いたことを顔に出さないように微笑みながら、踵の低いパンプスを脱ぐ。そして私は彼に大人しく抱き締められた。背中に回された手は相変わらずぬるかった。押しつけられた胸からはとくとくという鼓動が聞こえる。この音が少し苦手だ。不安になるリズム。
「……いきなりいなくなったから、心配したんだ」
「ごめんなさい、少し用事で」
この低い声はずっと好きだった。色に例えるなら濃い灰色の、そんな微かな温もりのある声。私は少しだけもがいて彼を見上げた。伸びて目を隠している前髪に手をやる。彼は私に触られるのが嬉しいとでも言いたげに笑った。額をすり付けるようにして私の手に触れる。
「宴兄さん、髪を切りましょう?」
「ああ、いいよ。花実が切ってくれるならね」
「いいですよ、少し失敗しても許して下さいね? じゃあ、どうか離して下さいな。歩けないわ」
「そうだね、でも、その前に」
本当におかえり、花実。と額に口づけされる。薄い唇の柔らかい感触。似ているものに同じところに触れられたことを思いだしてうっかり女の子みたいね、と口に出してしまいそうになる。
「はい、どうぞ」
拘束は解かれたものの、今度は右手を絡められる。
「おいで、花実」
「嫌だわ、部屋の場所ぐらい知ってるのに」
彼にとっては冗談に聞こえる嘘をつく。
「離したくないんだ」
そう笑った顔は、昔の兄さんのそれと変わらない優しく穏やかなものだった。
磨かれたフローリングの廊下は氷のように冷たく、私の薄いレースの靴下はまったく用を為さない。初めて歩く廊下を何も知らない従兄に手を引かれながら歩く。あれが目的の扉だろうか、それともあれが? と勝手に予想しては外れる遊びを繰り返す。
通り過ぎた扉に掛けられた小さな絵の隅に「hanami.k」というサインが入っていた。
「花実は絵も描けて料理もできて僕の髪も切れる。すごいなあ」
淡い水彩の絵を横目に見ていることに気付いたのか、彼が言った。
「全部趣味の域を出ないのに。宴兄さんだって多趣味だわ」
「いつの話だろう。忘れちゃった。今は花実がいなきゃ何もできない」
「またそんなことを言う」
ふふっと私は笑った。それが冗談ではないことを知りながら。
一回角を左に曲がったそこに目的と思われるものがあった。真ん中に擦り硝子がはめ殺しになっている薄いグレーの扉。私達の城の入り口。花実はきっとここをそう言っていたに違いない。けれどここはきっと私にとって。
私││花実だけれど花実ではない私にとって、最後の場所。私の本当の名前は叶伏月実。花実と同じ顔をしただけの別人。
叶伏花実はこの世にいないことを、私の手を引く哀れな彼は知らない。
ねえ、貴方たちって便利ね。いつか誰かにそんなことを言われたことがある。私達のこの外見が便利だったことなんてあまりなかったから揃って笑いながら「そうですね、入れ替わりくらいですけど」と言っていたっけ。
「おかえり、花実」
「ただいま」
呼び鈴も鳴らさずドアノブに手をかける。予想通り、ドアは開いていた。けれど彼も私がまるで扉を開けることを予想していたかのように立っていた。腕を広げて、私がそこに飛び込むことを待っている。驚いたことを顔に出さないように微笑みながら、踵の低いパンプスを脱ぐ。そして私は彼に大人しく抱き締められた。背中に回された手は相変わらずぬるかった。押しつけられた胸からはとくとくという鼓動が聞こえる。この音が少し苦手だ。不安になるリズム。
「……いきなりいなくなったから、心配したんだ」
「ごめんなさい、少し用事で」
この低い声はずっと好きだった。色に例えるなら濃い灰色の、そんな微かな温もりのある声。私は少しだけもがいて彼を見上げた。伸びて目を隠している前髪に手をやる。彼は私に触られるのが嬉しいとでも言いたげに笑った。額をすり付けるようにして私の手に触れる。
「宴兄さん、髪を切りましょう?」
「ああ、いいよ。花実が切ってくれるならね」
「いいですよ、少し失敗しても許して下さいね? じゃあ、どうか離して下さいな。歩けないわ」
「そうだね、でも、その前に」
本当におかえり、花実。と額に口づけされる。薄い唇の柔らかい感触。似ているものに同じところに触れられたことを思いだしてうっかり女の子みたいね、と口に出してしまいそうになる。
「はい、どうぞ」
拘束は解かれたものの、今度は右手を絡められる。
「おいで、花実」
「嫌だわ、部屋の場所ぐらい知ってるのに」
彼にとっては冗談に聞こえる嘘をつく。
「離したくないんだ」
そう笑った顔は、昔の兄さんのそれと変わらない優しく穏やかなものだった。
磨かれたフローリングの廊下は氷のように冷たく、私の薄いレースの靴下はまったく用を為さない。初めて歩く廊下を何も知らない従兄に手を引かれながら歩く。あれが目的の扉だろうか、それともあれが? と勝手に予想しては外れる遊びを繰り返す。
通り過ぎた扉に掛けられた小さな絵の隅に「hanami.k」というサインが入っていた。
「花実は絵も描けて料理もできて僕の髪も切れる。すごいなあ」
淡い水彩の絵を横目に見ていることに気付いたのか、彼が言った。
「全部趣味の域を出ないのに。宴兄さんだって多趣味だわ」
「いつの話だろう。忘れちゃった。今は花実がいなきゃ何もできない」
「またそんなことを言う」
ふふっと私は笑った。それが冗談ではないことを知りながら。
一回角を左に曲がったそこに目的と思われるものがあった。真ん中に擦り硝子がはめ殺しになっている薄いグレーの扉。私達の城の入り口。花実はきっとここをそう言っていたに違いない。けれどここはきっと私にとって。
私││花実だけれど花実ではない私にとって、最後の場所。私の本当の名前は叶伏月実。花実と同じ顔をしただけの別人。
叶伏花実はこの世にいないことを、私の手を引く哀れな彼は知らない。