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浜っ子人生ー旅でない旅

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 第一次世界大戦が終わるまでドイツの植民地であったナミビアには、ドイツの臭いがそこかしこに強く残っていた。ドイツ訛り丸出しの英語にお目にかかった事も屡々であった。ハイウエイも良く整備されていて、しかも何キロも続く直線道路であった。見るもの聞くものすべてが珍しかったが、例によって仕事での旅行だから、歴史や文化を勉教したくともその時間はなかった。
 
 ウオルス・ベイで一泊し、翌日ウインドックに戻る途中、カリブと言う小さな集落のスタンドで給油した。スタンドには微々たる商品を並べたスーパーも併設されていて、子供たちやおかみさん達がささやかな買い物をしていた。

 日中は三十五、六度にもなり、かさかさに乾いた砂漠から吹きつける熱風で息苦しいが、夕暮れともなると少し涼しくなる。私達一行がジュース類などの補給をしていると、好奇心に満ちた目が注がれていたが、アメリカの黒人街などでお目にかかった事がある鋭さはなく、優しく純朴な視線だった。
 
 いつの間にか文明に心までも毒され、自然を敬う事を忘れてしまった私達の目から見れば、この人々の生活はともすれば貧しく惨めなものに見える。だがよく見ると、ここの人々が持っている自然と共に何千年もの間生きて来た逞しさや美しさに気付く。

 こんなところでは英語は通じない。しかし、お母さんに散々ねだって買って貰ったキャンディーを口に含んだ子供と目が会った時、思わず
「良かったね」
と私も笑顔になってしまった。するとそのお母さんも回りの人達も笑顔を向けてくれた。それはこの十日余りの間に溜まっていた私のストレスを跡形もなく押し流してしまうほどの暖かさに溢れている笑顔だった。
 
 古来からの生活を欧米人に撹乱され、土地も奪われ家族を破壊され、冷酷な差別の中を生き抜いて来た人達が失わずに持っていたこの笑顔は、先進国だ、文明人だと言うおごりに固執する事の儚さに気付かせてくれるものであった。

 今までアフリカの事は本では読んでいたが、実際に彼らの口から聞き、私が目で見たことで、歴史の事実を実感で捉える事が出来た。想像を超えた抑圧に耐え、独立を果たしたナミビア人達、失業、貧困と戦っている彼らに私は深い感銘を受けた。

 或る日、ナミビア南部のル―ドリッツと言う町から首都に戻る途中、田舎村にたった一軒しかないガソリンスタンドで給油した。外はもう夕暮れの光になり、丁度燃えるような夕日が地平線に近づこうとしていた。

 車に戻ろうと歩き出した時、ウインドックに続く道をこちらに歩いて来る黒人の姿が見えた。粗末な身なりの父親は近くの鉱山の労務者であろうか。その父親に嬉しそうにまとわりついている子供達、赤ちゃんをヒョイと腰の横に乗せるようにして夫に寄り添って歩いて来る妻の笑顔、ありふれた貧しい黒人の家族が家路を急いでいる姿だと見れば、それだけのことだったかも知れない。

 砂漠に沈む夕日を背景にしたあの景色は今でも私の目に焼き付いている。ささやかな、だが暖かさの溢れる光景だったからである。
 だが、私にはこの二十年近くの間、繰り返された出張の度に感じていた空虚さが何であったのかを目の前に見た心地がした。彼らの後ろには夕暮れの中に荒涼としたサバンナが延々と広がっていた。しかしその侘しい風景の中で彼らの姿だけが暖かく輝いて見えたのである。
 
 例え、仕事の旅とは言え、違った土地に行き、色々な人達と会う事によって得たものが何もなかったとは言えない。様々な環境の中に置かれ英語の必要性に迫られながら、私なりの自分の英語を磨く努力をする事も出来た。色々な人種の人達と一緒に仕事をすることで、民族性、国家、社会習慣、文化等についての視野を広げる事も出来た。
 
 心に残るような思い出の一つや二つがないわけでもなかった。とは言うものの、私の旅は仕事の為の旅であり、群れとしての行動に常に束縛されていた。未知のものを見つけ出す喜びや、心が触れ合うような人との出会いなど望むべきもなかった。旅本来の姿とは似ても似つかぬものであった。
 
 虚ろな旅の真似ごとを繰り返し「仕事をしているんだ!」と無理矢理に自分を納得させ、心の空白を埋めようとしていたに過ぎなかった。その間に失いかけていたもの、それをこのナミビアの田舎で出会った黒人の家族に見た。
「旅でない旅に終止符を打ちたい」
夕暮れの光の中を遠ざかっていく彼らを見ながら、私はつくづくそう思った。
 
 ウインドックに戻り再び会見した漁業次官から、先日の私達の提案に対して前向きの返事が伝えられた。そのほんの少し前に次官と会見した日本の偉い役人さんから「否定的な回答」を貰っていた私達は戸惑いを感じたが、何れにしても朗報なので文書で確認を取る事にした。
 
 文書の英訳は出来たがタイプライターがない。ホテルのそれをやっと借りて仕上げる始末だった。日本や北米などではあり得ない事ではあるが、発展途上国の場合には面倒でもせめてポータブルタイプぐらいは持って行くべきだと痛感した。

 いや、それよりも私にはこの突然の変化が気持ちに引っかかっていた。私にもアフリカ系アメリカ人との交渉経験はある。しかし彼らの思考や感情の動きに、他のアメリカ人と異なるところは先ずなかった。だが、私はナミビアの最初の会議の席場でも既に何かが違う事を感じていた。
 
 ナミビアの場合には相手の感情の起伏が激しかった。国造りへの情熱やプライドがそうさせているのかもしれない。が何れにしても、この「違い」をきちんと認識しておくことが、これから日本と色々な面で漁業協力を進めて行く際にも必要でないかと、と私は感じていた。
 
 十六日間に亘る仕事が終わり、プレトリアに行くと言うミッションの連中と別れ、ウインドック空港で一人フランクフルト行きの飛行機を待っている時、どういう訳か
「これで旅でない旅は終わりだ」
と言う気持ちがしてならなかった。私の心の中に、あの黒人家族の姿が浮かんでいた。
                (完)