浜っ子人生ー旅でない旅
人生とは全く予想もつかないコースを歩むものだなとつくづく思う。総領事館経済部の時代、水産関連情報を集めるためにカナダ漁業省(DFO)バンクーバー支局や、大手のBCパッカ―ズ等とのコネはあったけれど、私は水産にズブの素人、サケとイワシの区別ぐらいは出来ても後はすべて白紙である。
しかし私の英語力が幸いしたのか、今まで全く縁のなかった水産業界への第一歩を踏み出すことになった。
会社の業務が拡大すればするほど私の出張は増え、席の暖まる暇もない程であった。通訳と言う究極的には補助的な仕事ではあるが、英語を駆使することで会社の業務向上に寄与していると言う認識があり、それと同時に英語を通じて、その国や土地の人々を知り、心を通わせる事が出来る喜びは大きかった。
北米は元よりオーストラリア、英国、デンマーク、グリーンランド、ナミビアなど数え上げたらきりがないほど色々な国に出かけた。
平成六年三月、私にアフリカ大陸を訪れるチャンスが巡ってきた。南アフリカの北に境を接しているナミビアでの漁業交渉のお伴を仰せつかったのである。日本の遠洋漁業が活躍出来る海は狭まるばかりである。例えアフリカの涯であろうとも操業の機会があれば、と言う日本の遠洋漁業界の切羽詰まった現状なのだ。
ナミビアの公用語は英語だそうだから、言葉で困る事はないかも知れないが、何しろ余りにも遥かな国で見当が付かない。地元の書店を漁って見たがナミビア関係の本は僅かしか見つからなかった。
バンクーバー、ロンドン、フランクフルト、ヨハネスブルグを経由して目的地のウインドックに着くまでには優に二十四時間かかった。南アの首都ヨハネスブルグを経由して飛ぶ機の下に、ただ荒涼としたカラハリ砂漠が何処までも広がっており、初めて見るアフリカの自然に私の目は吸いつけられていた。
オーストラリア行きで南半球への旅の疲れを経験したが、今回も大差なかった。バングラディッシュの貧困を予想していた私が見たナミビアは、似て非なる国であり、乾燥している事が対照的である事以外には、ナミビアは明るかった。小さな空港ではあったが、思っていた以上に掃除が行き届いていた。
首都の木々や草花はオーストラリアで見たものと似ていたが、少数の白人、カラ―ドと呼ばれている混血、そして絶対多数を占める黒人と、町の雰囲気は今まで私が全く経験しなかったものであった。南アフリカの人達の英語は、一寸聞くと英国風だがよく聞いてみると寧ろオランダ語かドイツ語の抑揚がある。
ナミビアの英語はどうかと関心があったが、英国風の抑揚は殆どなかった。バス・ターミナル近くのシュロの木の下の青空マーケットに座っている人々の表情、ホテルの入り口にカラフルな民族衣装を着た人々が、地面に手作りの人形を並べて売っていたが、どの顔にも明るさがあった。これがナミビアについての私の第一印象だった。
ホテルでもロンドンと同じで、「サ―」の敬称を必ず付けられたが、ロンドンの時ほどぎこちない感じはしなかった。慣れたのか、それとも相手が黒人だからなのかは判らない。
町で東洋人を見る事は滅多になく、店に入ると
「中国人か」
と聞かれる事があり、
「日本人だ」
と答えると不思議そうな顔をされた。無理もない、日本は余りにも遠い国なのである。
ナミビア漁業省との会議は到着の翌日から始まった。日本からのミッションは役所の方がリーダーで、あとは民間団体のメンバーである。皆さんも英語が出来るので大いに助かる。仕事以外の時にまで通訳をやらされるのは本当に大変だからである。
いかにもアフリカらしく会議のスケジュールは至極のんびりしたものであった。ウインドックで政府関係者との会議、あとは大西洋側の町々の工場や水産研究所の視察と言う事になっていた。
政府の上部は全て黒人がポストを占めていて、中間の実務者が白人と言う構図である。漁業次官を交えて会議をしたが、私が一番感心のあったのは、ナミビア人の心理だった。アメリカでの黒人と仕事の話をした経験は何度もあった。しかし黒人が自分達の国で、しかも政府等の要職に就いている場合に、付与された権限をどの様な思考に基づいて行使するのか、これが私の関心事だった。
嘗て支配者だった白人たちは仕事を熟知しているが、上に立っている人達にプライドはあっても実務経験に乏しい場合が多い。この関係は微妙なものであって、会議をする場合にも細心の注意が必要である。上を持ちあげると話が中に浮いてしまう恐れがあるし、かと言って実務者を上げ過ぎると上の権威にソッポを向かれてしまう。
日本語で発言するミッションのメンバーも勿論であるが、それをその場に合った英語にしなければならない私は、神経をすり減らす思いであった。漁業次官はヨーロッパに留学した人であったが、通訳を使う事に慣れていないのか、話が次から次へと続いてしまう。仕方がないので実務者の方に私の方からサインを送って、次官にブレーキをかけてもらう事で対応した。
次官との第一回の会議が終わってから、私達一行は現地視察のために大西洋側の町々、スワコップムンド、ウオルス・ベイに行く事になった。運転手付きの車を雇い入れ、早朝首都を出発した。
道路は完全舗装されている。70キロ程北に走りオカハンジャの町で小休止した。道端にはナミビア人達が大きなテントを張り、中で彫り物や装身具等の手作り物を売っていた。彼らは北の村々から出稼ぎに来たが、職が無いので政府の援助でこういう仕事をしているんだと運転手が説明してくれた。
職が無いとは言いながらも売っている人達の顔に暗さはなかった。そこから西へ二百五十キロのスワコップムンドへの道は、だんだん木が無くなり砂漠地帯であった。太古の山が浸食されたのか、砂漠の中に並んでいる岩は山の稜線の形をしていた。気温は38度、太陽の光に目を開けていられないくらいである。
スワコップムンドは海岸近くの砂漠の中にある町だが、ドイツ時代に作られただけあって、整然とした街並みだ。昼食は町のホテルで取ったが、中に入ると典型的な植民地の白人のオアシスと言う感じだった。ここで私達は小さな失敗をした。運転手に
「一緒に食事をしよう」
と誘ったのだが、彼は買い物をするからと辞退した。後で気付いたのだが、南ア当時時代の人種差別の名残りが未だにあり、黒人達は私達が食事するようなレストランに入る事を避けていたのだった。
日本でも終戦後、アメリカ人しか入れない、オフ・リミットの場所があった。自分の国なのに外国人には認められ、自分達は除外されるなど理不尽なことだ。日本は戦って敗れたのだから、まだ我慢もしようが、彼ら黒人は戦う力もなく、一方的に西欧人のなすがままになるしかなかったのだから、その悔しさは想像もつかない。おとなしい運転手の顔を見ながら心の中で謝っている私がいた。
しかし私の英語力が幸いしたのか、今まで全く縁のなかった水産業界への第一歩を踏み出すことになった。
会社の業務が拡大すればするほど私の出張は増え、席の暖まる暇もない程であった。通訳と言う究極的には補助的な仕事ではあるが、英語を駆使することで会社の業務向上に寄与していると言う認識があり、それと同時に英語を通じて、その国や土地の人々を知り、心を通わせる事が出来る喜びは大きかった。
北米は元よりオーストラリア、英国、デンマーク、グリーンランド、ナミビアなど数え上げたらきりがないほど色々な国に出かけた。
平成六年三月、私にアフリカ大陸を訪れるチャンスが巡ってきた。南アフリカの北に境を接しているナミビアでの漁業交渉のお伴を仰せつかったのである。日本の遠洋漁業が活躍出来る海は狭まるばかりである。例えアフリカの涯であろうとも操業の機会があれば、と言う日本の遠洋漁業界の切羽詰まった現状なのだ。
ナミビアの公用語は英語だそうだから、言葉で困る事はないかも知れないが、何しろ余りにも遥かな国で見当が付かない。地元の書店を漁って見たがナミビア関係の本は僅かしか見つからなかった。
バンクーバー、ロンドン、フランクフルト、ヨハネスブルグを経由して目的地のウインドックに着くまでには優に二十四時間かかった。南アの首都ヨハネスブルグを経由して飛ぶ機の下に、ただ荒涼としたカラハリ砂漠が何処までも広がっており、初めて見るアフリカの自然に私の目は吸いつけられていた。
オーストラリア行きで南半球への旅の疲れを経験したが、今回も大差なかった。バングラディッシュの貧困を予想していた私が見たナミビアは、似て非なる国であり、乾燥している事が対照的である事以外には、ナミビアは明るかった。小さな空港ではあったが、思っていた以上に掃除が行き届いていた。
首都の木々や草花はオーストラリアで見たものと似ていたが、少数の白人、カラ―ドと呼ばれている混血、そして絶対多数を占める黒人と、町の雰囲気は今まで私が全く経験しなかったものであった。南アフリカの人達の英語は、一寸聞くと英国風だがよく聞いてみると寧ろオランダ語かドイツ語の抑揚がある。
ナミビアの英語はどうかと関心があったが、英国風の抑揚は殆どなかった。バス・ターミナル近くのシュロの木の下の青空マーケットに座っている人々の表情、ホテルの入り口にカラフルな民族衣装を着た人々が、地面に手作りの人形を並べて売っていたが、どの顔にも明るさがあった。これがナミビアについての私の第一印象だった。
ホテルでもロンドンと同じで、「サ―」の敬称を必ず付けられたが、ロンドンの時ほどぎこちない感じはしなかった。慣れたのか、それとも相手が黒人だからなのかは判らない。
町で東洋人を見る事は滅多になく、店に入ると
「中国人か」
と聞かれる事があり、
「日本人だ」
と答えると不思議そうな顔をされた。無理もない、日本は余りにも遠い国なのである。
ナミビア漁業省との会議は到着の翌日から始まった。日本からのミッションは役所の方がリーダーで、あとは民間団体のメンバーである。皆さんも英語が出来るので大いに助かる。仕事以外の時にまで通訳をやらされるのは本当に大変だからである。
いかにもアフリカらしく会議のスケジュールは至極のんびりしたものであった。ウインドックで政府関係者との会議、あとは大西洋側の町々の工場や水産研究所の視察と言う事になっていた。
政府の上部は全て黒人がポストを占めていて、中間の実務者が白人と言う構図である。漁業次官を交えて会議をしたが、私が一番感心のあったのは、ナミビア人の心理だった。アメリカでの黒人と仕事の話をした経験は何度もあった。しかし黒人が自分達の国で、しかも政府等の要職に就いている場合に、付与された権限をどの様な思考に基づいて行使するのか、これが私の関心事だった。
嘗て支配者だった白人たちは仕事を熟知しているが、上に立っている人達にプライドはあっても実務経験に乏しい場合が多い。この関係は微妙なものであって、会議をする場合にも細心の注意が必要である。上を持ちあげると話が中に浮いてしまう恐れがあるし、かと言って実務者を上げ過ぎると上の権威にソッポを向かれてしまう。
日本語で発言するミッションのメンバーも勿論であるが、それをその場に合った英語にしなければならない私は、神経をすり減らす思いであった。漁業次官はヨーロッパに留学した人であったが、通訳を使う事に慣れていないのか、話が次から次へと続いてしまう。仕方がないので実務者の方に私の方からサインを送って、次官にブレーキをかけてもらう事で対応した。
次官との第一回の会議が終わってから、私達一行は現地視察のために大西洋側の町々、スワコップムンド、ウオルス・ベイに行く事になった。運転手付きの車を雇い入れ、早朝首都を出発した。
道路は完全舗装されている。70キロ程北に走りオカハンジャの町で小休止した。道端にはナミビア人達が大きなテントを張り、中で彫り物や装身具等の手作り物を売っていた。彼らは北の村々から出稼ぎに来たが、職が無いので政府の援助でこういう仕事をしているんだと運転手が説明してくれた。
職が無いとは言いながらも売っている人達の顔に暗さはなかった。そこから西へ二百五十キロのスワコップムンドへの道は、だんだん木が無くなり砂漠地帯であった。太古の山が浸食されたのか、砂漠の中に並んでいる岩は山の稜線の形をしていた。気温は38度、太陽の光に目を開けていられないくらいである。
スワコップムンドは海岸近くの砂漠の中にある町だが、ドイツ時代に作られただけあって、整然とした街並みだ。昼食は町のホテルで取ったが、中に入ると典型的な植民地の白人のオアシスと言う感じだった。ここで私達は小さな失敗をした。運転手に
「一緒に食事をしよう」
と誘ったのだが、彼は買い物をするからと辞退した。後で気付いたのだが、南ア当時時代の人種差別の名残りが未だにあり、黒人達は私達が食事するようなレストランに入る事を避けていたのだった。
日本でも終戦後、アメリカ人しか入れない、オフ・リミットの場所があった。自分の国なのに外国人には認められ、自分達は除外されるなど理不尽なことだ。日本は戦って敗れたのだから、まだ我慢もしようが、彼ら黒人は戦う力もなく、一方的に西欧人のなすがままになるしかなかったのだから、その悔しさは想像もつかない。おとなしい運転手の顔を見ながら心の中で謝っている私がいた。
作品名:浜っ子人生ー旅でない旅 作家名:栗田 清