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浜っ子人生ー戦争の申し子

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 私の育った横浜の町のリベラルなムードとは正反対な、軍国主義が肩で風を切り、全てが軍国色一色で塗りつぶされていた。生徒同士は兎も角として、先生、特に男性教師の私達への態度は、軍隊に入営したかと錯覚するほど軍国色一色で塗りつぶされていて、「とんでもない所へ疎開したもんだ」とショックだった。
 
 戦争が益々身近なものに成りつつあり、空襲も段々激しくなり、中でも昭和二十年三月十日夜の東京大空襲は今でもはっきり覚えている。爆撃を終わったB29の大編隊が、次から次へと私達の頭上を太平洋へと飛び去って行った。叔父の家からでも東京の空が真っ赤になっているのが見え、凄まじい火災のはじける音が聞こえてくるようだった。

 「武器のない一般市民を殺すなんて鬼畜だ!」
大人たちに混じり、まるですぐそこの松林の向こうで燃え狂っているように見える火災に焦がされた空を見ながら、私は込み上げてくる怒りをどうする事も出来なかった。
 
 一夜が明けた翌日の昼から夕方にかけて、家の下にある千葉街道を焼け焦げた衣服をまとい、煤だらけの顔をした戦災者がトボトボと歩いて来た。何時果てるとも知れぬ其の行列に、私は空襲の凄まじさと戦争の酷たらしさをひしひしと身近に感じた。
 
 昭和二十年四月、私は無事に千葉県立一中に入学した。学校には毎日行ったが勉強らしい勉強はもうなかった。ゲートルを巻き防弾ズキン、水筒、ガス・マスクや鉄兜を背負った私達から今のような中学生を想像することは出来ない。
 
 たった十三歳の私達、子供までも戦争へと狩りたててしまった、あの狂気は何だったのだろうか。まともな授業は軍人教練くらいのものであった。中学校には配属将校と言う軍人が一人か二人必ずいた。この軍人達は私達に軍隊さながらの訓練を強制した。
 
 軍人典範なるものを押しつけ、
「一つ、軍人は忠誠を尽くすを本分とすべし」
に始まる軍人勅論を叩きこんだ。ビンタ、総員罰則は朝飯前、木製の銃を持たせワラ人形に突撃させ、あとになると竹やりで人を殺すこと迄も教えた。

「元気がある」ことが重要であり、小声で返事でもすれば即座に鉄拳が飛んできた。上級生たちは「学徒勤労動員令」により工場で作業する事を強制された。校内には兵舎を焼かれた軍隊が同居していたし、何もかもが軍隊の規律で固められていた。
 
 私達一年生はゼロ戦のエンジンに使う潤滑油を採る為と言う事で、太い松の根を掘り出す作業が幾日も続いたこともあった。松の根は深く張っていてその掘り起こしに手を豆だらけにし、田植えの手伝いに腰まで浸かってしまうような深田に飛びこまされた。もう私達には「何かがおかしい」等と戦争の雲行きに疑問を持つゆとりも気持ちもなかった。
 
 空腹、疲労の中でただ勝つ事を信じて私達は毎日この戦いを続けていたのである。そのうちに私達も軍隊と一緒にされて、武器や弾薬を入れる横穴式防空堀りに狩りだされるようになった。
 
 こうした日々、近くに爆弾を落とされたり、敵機から凄まじい機銃掃射を受けるなど、命からがらの経験もし、学友中に犠牲者も出た。今振り返って見ても、それはまるで狂気のような毎日だった。疎開に始まったこの一年間、私は落ち着いて勉強したことはなかった。

 毎晩のように鳴り響く空襲警報にゲートルを巻いたまま布団に潜り込んだ日々だった警報が出ると自転車に飛び乗って
「空襲警報発令・・・・」
と怒鳴って歩く。真っ暗な夜道を走り京成電車の踏切で自転車の前輪が線路に挟まって転倒した事もあった。

 政府のプロパガンダを盲信し「全てを戦争へ」 投入させられていた。
非戦闘員の私達子供ですらも命を奪われたり、或いは其の危険に連日、身をさらしていた。だが、「一発で広島が壊滅した」と伝えられる新型爆弾
(政府は原爆とは言わなかった)の威力の前には死と言うものが、得体の知れない魔手を私達の上に広げようとしている事を感じた。

「逃れたい、だが逃れられない」この恐怖の葛藤の中に追い込まれていた私は死を見つめるには余りにも若すぎた。物心つく頃から叩きこまれてきた「神国不滅」 の信念もこの恐怖の前には何の役にも立たなかった。
 
 原爆は広島に続いて長崎にも投下された。伝単と呼ばれていた宣伝ビラがB-29から盛んにばらまかれるようになった。ソ連が不可侵条約を一方的に破棄して満州になだれ込んでいた。だが政府は「本土決戦の決意」 を国民に強いていた。
 
 こうして八月十四日が終わろうとしている時、
「明日は陛下の重大放送がある」
とラジオが伝えた。きっと「最期の一兵迄も戦え」と言われるに違いないと、誰もが「聖戦」の継続を信じていたのである。珍しく空襲警報のサイレンが鳴らない夜であった。
 
 昭和二十年八月十五日正午、日本中が玉音放送を聞こうとラジオにかじりついていた。感度が悪く雑音ばかりのラジオから流れてくる陛下のお声も、ようやく聞きとれる程度だった。「敗戦」の現実は時間を追う毎に明らかになって行った。

「日本は神国である、この国土を外国人に土足で踏ませてはならない」
徹底した軍国主義の中で育てられてきた私には、アメリカ軍が進駐してくる等と言うことは考えられなかった。「鬼畜である」と信じ込まされていた私達は、丸腰になってしまった日本人の進駐軍がどんな措置をとるかが皆目分らなかった。
 
 四等国になってしまった日本、あの栄光は何処に消えてしまったのだろうか。屈辱感や虚脱感、底知れない不安、こうした事が十三歳の私の頭の中で渦を巻いていた。「明日からどうなるのか」     
久しぶりで灯火管制の黒い布を外した電灯の下で家族三人が首をひねって見ても、何も分からなかった。
 
 明治維新の活力の中で生まれ大正の平和を知っている祖父母には「平和」の姿も意味も分っていたろうが、戦争の中で育ってきた私には
「戦いのない社会」などは全く想像出来なかった。
 
 子供から大人へと育っていく人生のもっとも大切な節目の時に、私達
「戦中派」は前例のない価値観の大転換期に遭遇したのである。
私達をリードすべき大人たち自身が、この大転換の渦の中で戸惑っていたのである。寄るべき柱を失ってしまった日本は、国中が未曽有の混乱の中にあった。
 
 長く苦しい戦いは終わった。何百万人と言う日本人が殺され、傷つき、その何倍もの人々が世界中で犠牲になった。日本中が焦土と化していた。そんな中で人々は「普通の生活」 に戻ろうと足掻いていた。

 本州、北海道、四国そして九州のたった四つの島になってしまった日本に兵隊や引揚者がどっと戻ってきた。寄るべき柱を失ってしまった日本は、国中が未曽有の混乱の中にあった。驚くべきことは、進駐軍と日本人との間で大きな摩擦が無かったと言うことである。
 
 横浜の町にもいち早くアメリカ軍が進駐していた。銃を持ったアメリカ兵、チューインガムを噛みながら立っている兵士があちこちにいた。それを見た時負けた悔しさが胸一杯に込み上げて来た。当時は読めなかったが町中至る所に「OFF LIMIT」 「NO PARKING」 と書いたビラが貼られていた。