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浜っ子人生ー戦争の申し子

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私は純粋(?)の戦中派である。私の生まれる前の年には満州事変が勃発していたし、五歳の時には日中戦争、九歳の時には太平洋戦争と、まるで戦争の申し子のような世代、戦時と言う環境の中で大きくなった。
 
 昭和十二年に始まった日中戦争が泥沼の様相となり、私達の生活にも色々な面で其の影響が及ぶようになった。それ迄は、私の故郷横浜は、明治維新以来日本の近代化の窓口として発展してきた町であっただけに、山下公園や大桟橋、馬車道辺りには段だら縞のシャツを来たマドロスさんをよく見かけた。異人さんと言う言葉はあっても
「ワァー外人だぁー」
と騒ぎ立てる事もなかった。

 ところが、そんな私達の生活の色々な面に戦争の影響が及ぶようになった。
 
 町で外国人の姿を見る事も少なくなり、ビルの横文字も減る一方だった。そして昭和十六年十二月八日、私が小学三年生の時、とうとう太平洋戦争の火ぶたが切られた。「全てを戦争へ」そんなポスターが町中に貼られ、町からは背広やドレス姿が消え、代わってカ―キ―色の軍服や国民服、モンペ姿が幅をきかすようになった。

 小学校は国民学校へと名が変わり、お米や野菜、そして果物までもが配給制になった。生活の全てが戦争へと駆り立てられていった。

「英語は鬼畜米英の言葉」 所詮、敵性語だから使ってはいけないと言う規則が実施され、野球用語までもが全部日本語になった。
 
 私達は少国民と呼ばれ「天皇陛下の御盾となる」 これこそが至上の義務である事を教え込まれていた。町には軍歌が勇ましく流れ、
「万歳、万歳」 
と出征兵士を送る国防婦人会のオバさん達の打ち振る日の丸の小旗と、白い割烹着が埋めた。
 
 シナ大陸での戦争が軍部の狂気のような侵略戦争であり、無敵皇軍がドロ沼のような戦いにはまり込んでいるなどと言う真相は、一切国民に知らされていなかった。兵隊さんは私達子供にとっては神様のような存在であり、男の子は軍人になる事が夢であった。

 そしてあの十二月八日の朝がやってきた。確か六時三十分頃だったと記憶する。ラジオが
「臨時ニュースを申し上げます」 
と繰り返し、
「帝国陸軍海軍は本日八日未明、西太平洋に於いて米英と戦闘状態に入れり」 
と言うアナウンサーの興奮した声が流れて来た。私達は学校で
「アメリカやイギリスなどが抑圧してきたアジアを日本が解放しなくてはならない、日本の戦いは正義の戦いだ、それなのにアメリカやイギリスは日本を包囲して圧力をかけている」
 と教えられていた。
 
 東条総理大臣の演説や真珠湾攻撃の戦果等と、十二月八日は興奮の中に過ぎて行った。学校の朝礼では校長先生が、
「君達は心身を鍛え、早く大きくなってお国の為に尽くさなければならない」
とお定まりの訓示をされた。皆、興奮していた。

 だが教室に戻ってから角田先生から「聖戦完遂」について何一つ訓示を受けた記憶がない。いつもと変わらぬあの物静かな笑顔で、授業をされていた。授業を中断してまでも、その後の皇軍の嚇々たる戦果が報じられていたあの興奮の中で、僅か九歳だった私達に、今でも心に焼き付いているあの笑顔を残された角田先生、先生の静かな心には、あの戦争の愚かさがはっきりと写っていたに相違ないと思う。

 学校の建て替え工事は延々として進まず、四年生になった私達は歩いて一時間ほどもかかる隣の岩崎国民学校の間借り教室に通う事になった。コの字型の校舎が国鉄の線路に向かって開いているこの学校は、山裾にあって静かな私達の学校とは違い騒々しかった。学校間の生徒の反目は今でもあるかも知れないが、戦争中の当時は随分激しかったように思う。
 
 隊列を組んで登下校する私達は、岩崎の生徒達の待ち伏せに遭う事が何度となくあった。勇ましい事、強い事が一番とされた時代、私達も負けてはいなかった。だが引き続き私達の担任をされた角田先生は争いの愚を説かれ、「和」の大切さを話された。
 
 私達の窮屈な学校生活と同様に国民の日常生活も窮屈になって来た。昭和十七年にはとうとう衣料にも切符制度が施工された。色々な物資が不足していたが、国民は「欲しがりません、勝つまでは」の標語のもとで耐える事を強制されていた。

 国民は「勝った、勝った」の声ばかりだったが、実は昭和十七年には既にアメリカの巻き返しが始まっていたのである。

 隣組組織が整備され個人生活も厳しい政府の監督の下に置かれていた。回覧版では「お上」からの指令が社会の隅々まで伝達された。これを隣の家に回す事が子供の役目だった。防空訓練も頻繁に実施され、消防団の指揮の下でモンペに身を固めたおかみさん達が竹の棒の先に縄やボロ布を縛りつけた「火叩き」を振り回し、バケツ・リレーや他の訓練に汗をかいていた。
 
 爆弾の爆風などでガラスの破片が飛散するのを防ぐ為に、家庭、学校などを問わずガラス窓にはテープ状に切った紙が星形に貼られ、電灯には黒い布や笠が被せられた。全く「子供騙し」のようなこうした処置が次々と実施されていた。
 
 その暗い灯の下で宿題をしていた私達だったが、「戦争は必ず勝つ」 と言う事に一筋の疑いも持っていなかった。
「鬼畜米英、打ちてしやまん、進め一億、火の玉だ」
等々至る所にぶら下がっているこうした標語に埋まりながら、軍国主義一色の中で育って行った。

 こんな社会の中で私にとって一番辛く持って行き場のない寂しさは、父がいない事であった。友達の父兄が次々と召集されて行く、それは天皇陛下の御為であり名誉なことだった。出征兵士を出した家の子供から、
「オイ、お前の所から誰もいないな」
と嘲笑されても私は返す言葉がなかった。それは勉強でも腕力でも勝つことの出来ない、私にはどうする事も出来ない現実だった。

「勝った、勝った」と景気が良かった戦況も、ガダルカナルに始まった米軍の怒涛のような巻き返しに、何だか雲行きが怪しくなってきた。子供の私達ですらも「何だか変だなぁ」とおぼろげながら感じ始めていた昭和十九年に入ると空襲は段々本格的になり、政府は次世代を担う私達、少国民を空襲から守ると言う目的で学童疎開を実施し始めた。
 
 疎開には二種類あって、集団で田舎の寺等に疎開する集団疎開と、田舎の縁故先へ身を寄せる縁故疎開とがあった。私は縁故疎開で、千葉市汐見ガ丘にいる叔父夫婦の家に身を寄せることになった。この叔父は日立航空機と言う飛行機を作っている会社に勤めているサラリーマンだった。
 
 明治大学の商学部を卒業した京都の舞鶴出身の人で、大学時代はラグビー部で鳴らしたスポーツマンの典型と言う感じの人だった。伯母と結婚していたが子宝に恵まれず、たった一人の甥である僕を息子のようにして可愛がってくれていた。そんな叔父の家とは言え、生まれて初めて故郷を離れ、しかも誰も知らない学校に転校する、考えただけでも嫌だったが仕方がない、それはお国のためであった。
 
 その頃の千葉は小さな田舎町、軍靴の響き渡る軍人の町であった。五年までの小学校生活を過ごした保土ヶ谷国民学校から、千葉では地元のエリート学校と言われる千葉県立女子師範付属国民学校と言う長い名前の付いた学校に転入学した。