Jane Doe
二〇〇四年 二月 夕方 十五年前
だぶついた裾からこれ以上空気が逃げ出さないよう、理奈はサイズの合わないジャージの袖を掴んだ。小柄な十四歳の自分には、何もかも大人サイズで、場違いだった。隙だらけの上着に、頭を大きく避けて、かろうじてすがりついているような白い耳当て。風越しに、前に立つ二人の会話が聞こえる。
「もともと、なんて書いてあったのかな。最初の文字は分かるけど」
屋代耕助は、後ろに立つ理奈と同じように、隣で首をすくめる妻の香苗に言った。香苗はうなずいたが、耕助からすれば震えているのと見分けがつかないと思い、声に出した。
「最初の文字は、ユだよね」
二人は共に四十五歳で、寒い地域の出身だったが、長い都会暮らしでその感覚はすっかり鈍っており、豪雪地帯でもない地域の『普通の田舎の冬』であっても、耐えられてせいぜい十分というところだった。
「ユか……」
耕助は、枯れて折れ曲がった木の枝に覆われている、屋根を見上げた。廃墟のドライブイン。かつて店の名前を掲げていた箇所には、鋲を打ったような跡だけが残り、そこには『ユ』に続けて、四文字もしくは五文字が並んでいたようだった。後の部分は、外壁が落ちており、元々の文字は予測できなかった。
「ユから始まる言葉か……」
耕助が言うと、香苗は首を傾げながら理奈の方を振り返り、意見を伺うように笑顔を見せた。理奈は耳当てをずらせると、呟いた。
「ユニオンとか?」
その言葉の響きに耕助も振り返り、二人は笑顔でうなずいた。このドライブインは改装されて、再び息を吹き返す。耕助は思った。今はどこから見ても廃墟だが、小ぎれいにして看板を光らせれば、見違えるだろう。
「駐車場には、砂利を敷いたほうがいいわね」
ひび割れだらけのアスファルトを見下ろしながら、香苗が言った。耕助はうなずいた。やることはたくさんあるが、まず名前が大事だった。
『ドライブイン ユニオン』
耕助が、考案者である理奈の方を振り返ると、理奈は口の端だけで笑顔を作ったが、寒さに負けたように首をすくめた。
二〇一九年 十月 夜 現在
「あいつの顔、見たかよ」
里川が助手席で笑った。人一倍びびりやすい性格なのは、よく知っている。村瀬はハンドルを握りながら、聞こえないように鼻で笑った。里川は巨体の割に、気が小さい。だからこそ、車でこうやって走っている間、同じことを何度も言い聞かせるように話している。そうでもしなければ、『あいつ』がその『顔』になるまでにあったゴタゴタを思い出すからだろう。村瀬はそう思いながら、ハンドルを持つ手に走った激痛に顔をしかめた。左手でハンドルを持つなと言い聞かせていても、癖で手を添えてしまう。これがマニュアルの車だったら、完全に詰んでいた。医者に見せたら、親指と人差し指の間に、新たな指でも追加するつもりだったのかと言われるだろう。それぐらいに深い切り傷が走っている。止血して包帯を巻く余裕はあったが、包帯を買いに行ったコンビニの防犯カメラに、里川の顔が映っただろう。村瀬は思った。自分は、店には入らずに、相当手前で待っていた。万が一のときは、単独犯ということでカタがつくだろうか。
死人に口なしだ。村瀬はセンターラインを踏みそうになってハンドルを小刻みに切りながら、神経質に笑った。
「今更ビビってんのか」
村瀬の笑い声を聞き逃さなかった里川は、目ざとく反応した。村瀬は首を横に振った。
「手が痛いんだよ。土壇場で逃げやがって」
ニュースをチェックしておくべきだったのだ。二週間前に数キロ離れたところで押し込み強盗があったと知っていたら、あの家は選ばなかった。老夫婦が二人で住んでいるというところまでは知っていたが、事件の影響を受けて防犯意識が高まっているというところまでは、想定できていなかった。おまけにあの二人の『防犯対策』は、すぐ通報できるように携帯電話を傍に置いておくとか、そういう生易しいものではなかった。寝室から出てきた夫は、すでに右手に包丁を持っていた。押し入って一分も経っていなかった。その刃は止めようとした村瀬の手に吸い込まれ、里川はだらしなく尻餅をついて逃げようとしたが、焦りすぎて方向感覚を失い、引き戸に激突した。村瀬は咄嗟に手を引き、刺さったままついてきた包丁を手から抜くと、それで夫を滅多刺しにして殺した。火事場の馬鹿力。それを持っている人間と、そうでない人間がいて、自分は明らかに前者だった。里川にそんな根性はない。自分より弱いと分からない限り、里川の拳には力が入らないようにできている。里川は引き戸の破片を纏ったまま、妻の首を絞めて殺した。村瀬はその滑稽さと手際の悪さを思い出して、笑った。
「たった五十万のために二人殺したんだ。解散だぜ」
村瀬が言うと、里川は鼻を鳴らした。飾りだと言いながら使いたかったに違いない、小さな三八口径のリボルバーに一度触れると、言った。
「その手じゃあな」
おそらく、本当の意味は分かっているんだろう。村瀬は会話を打ち切って、運転に集中した。オーディオから流れている音楽は、このカローラフィールダーを貸してくれた岩崎の趣味。ミッシェルガンエレファントのドロップ。里川は高校の同級生、岩崎とは大学で知り合った。同い年で、三十二歳になるが、学生時代を各々のタイミングで終えてからも、晩飯を食べに集まったり、交流は続いていた。里川が犯罪者の仲間入りをしてからは、全てがその方向へと流れた。今や、里川のジーンズには、拳銃が突っ込まれている。しかし、岩崎の車からは、まだ後戻りができた時代からずっと、このバンドの曲が鳴っている。
「何時だ?」
里川は独り言のように呟き、スマートフォンの時計を見て、納得したように宙を向いた。村瀬は自分のスマートフォンをポケットから取り出そうとしたが、傷口が開いたらまずいと思い直して、車載時計で時間を確認した。午後七時半。まだ早い。林道の途中にぽつりと建つ一軒屋だから、深夜ではなく、夕暮れ時を選んだ。遠くで農機具が全力で動いていて、そのエンジン音が山中に響いているのは、逆に好都合だった。道路わきで赤く光る看板に顔を照らされ、村瀬は顔をしかめた。里川がぐるりと首を回して振り向き、言った。
「あー、ちょっと寄ろうぜ」
「正気かお前」
村瀬が言うと、里川はうなずいた。
「昼、食ってねえんだ」
村瀬はチェーン脱着所でフィールダーを転回させると、ため息をつきながら元来た道を引き返した。砂利を鳴らしながら駐車場に入ると、屋根で堂々と光る看板を見上げた。
『喫茶・食事 ドライブイン ユニオン』
里川が言った。
「変わった名前だな」
駐車場には、白色のアルトラパンと、クルーキャブのキャンター、シルバーのレガシィセダンが停まっていた。レガシィの隣にフィールダーを停めた村瀬は、ルームランプを点けて、包帯の様子を確認した。血が滲んでいたら、即通報だろう。ベルトに挟んだ拳銃をトレーナーの裾で隠した里川は、言った。
「ビビってんのか。ちょっとメシ食うだけだ」
だぶついた裾からこれ以上空気が逃げ出さないよう、理奈はサイズの合わないジャージの袖を掴んだ。小柄な十四歳の自分には、何もかも大人サイズで、場違いだった。隙だらけの上着に、頭を大きく避けて、かろうじてすがりついているような白い耳当て。風越しに、前に立つ二人の会話が聞こえる。
「もともと、なんて書いてあったのかな。最初の文字は分かるけど」
屋代耕助は、後ろに立つ理奈と同じように、隣で首をすくめる妻の香苗に言った。香苗はうなずいたが、耕助からすれば震えているのと見分けがつかないと思い、声に出した。
「最初の文字は、ユだよね」
二人は共に四十五歳で、寒い地域の出身だったが、長い都会暮らしでその感覚はすっかり鈍っており、豪雪地帯でもない地域の『普通の田舎の冬』であっても、耐えられてせいぜい十分というところだった。
「ユか……」
耕助は、枯れて折れ曲がった木の枝に覆われている、屋根を見上げた。廃墟のドライブイン。かつて店の名前を掲げていた箇所には、鋲を打ったような跡だけが残り、そこには『ユ』に続けて、四文字もしくは五文字が並んでいたようだった。後の部分は、外壁が落ちており、元々の文字は予測できなかった。
「ユから始まる言葉か……」
耕助が言うと、香苗は首を傾げながら理奈の方を振り返り、意見を伺うように笑顔を見せた。理奈は耳当てをずらせると、呟いた。
「ユニオンとか?」
その言葉の響きに耕助も振り返り、二人は笑顔でうなずいた。このドライブインは改装されて、再び息を吹き返す。耕助は思った。今はどこから見ても廃墟だが、小ぎれいにして看板を光らせれば、見違えるだろう。
「駐車場には、砂利を敷いたほうがいいわね」
ひび割れだらけのアスファルトを見下ろしながら、香苗が言った。耕助はうなずいた。やることはたくさんあるが、まず名前が大事だった。
『ドライブイン ユニオン』
耕助が、考案者である理奈の方を振り返ると、理奈は口の端だけで笑顔を作ったが、寒さに負けたように首をすくめた。
二〇一九年 十月 夜 現在
「あいつの顔、見たかよ」
里川が助手席で笑った。人一倍びびりやすい性格なのは、よく知っている。村瀬はハンドルを握りながら、聞こえないように鼻で笑った。里川は巨体の割に、気が小さい。だからこそ、車でこうやって走っている間、同じことを何度も言い聞かせるように話している。そうでもしなければ、『あいつ』がその『顔』になるまでにあったゴタゴタを思い出すからだろう。村瀬はそう思いながら、ハンドルを持つ手に走った激痛に顔をしかめた。左手でハンドルを持つなと言い聞かせていても、癖で手を添えてしまう。これがマニュアルの車だったら、完全に詰んでいた。医者に見せたら、親指と人差し指の間に、新たな指でも追加するつもりだったのかと言われるだろう。それぐらいに深い切り傷が走っている。止血して包帯を巻く余裕はあったが、包帯を買いに行ったコンビニの防犯カメラに、里川の顔が映っただろう。村瀬は思った。自分は、店には入らずに、相当手前で待っていた。万が一のときは、単独犯ということでカタがつくだろうか。
死人に口なしだ。村瀬はセンターラインを踏みそうになってハンドルを小刻みに切りながら、神経質に笑った。
「今更ビビってんのか」
村瀬の笑い声を聞き逃さなかった里川は、目ざとく反応した。村瀬は首を横に振った。
「手が痛いんだよ。土壇場で逃げやがって」
ニュースをチェックしておくべきだったのだ。二週間前に数キロ離れたところで押し込み強盗があったと知っていたら、あの家は選ばなかった。老夫婦が二人で住んでいるというところまでは知っていたが、事件の影響を受けて防犯意識が高まっているというところまでは、想定できていなかった。おまけにあの二人の『防犯対策』は、すぐ通報できるように携帯電話を傍に置いておくとか、そういう生易しいものではなかった。寝室から出てきた夫は、すでに右手に包丁を持っていた。押し入って一分も経っていなかった。その刃は止めようとした村瀬の手に吸い込まれ、里川はだらしなく尻餅をついて逃げようとしたが、焦りすぎて方向感覚を失い、引き戸に激突した。村瀬は咄嗟に手を引き、刺さったままついてきた包丁を手から抜くと、それで夫を滅多刺しにして殺した。火事場の馬鹿力。それを持っている人間と、そうでない人間がいて、自分は明らかに前者だった。里川にそんな根性はない。自分より弱いと分からない限り、里川の拳には力が入らないようにできている。里川は引き戸の破片を纏ったまま、妻の首を絞めて殺した。村瀬はその滑稽さと手際の悪さを思い出して、笑った。
「たった五十万のために二人殺したんだ。解散だぜ」
村瀬が言うと、里川は鼻を鳴らした。飾りだと言いながら使いたかったに違いない、小さな三八口径のリボルバーに一度触れると、言った。
「その手じゃあな」
おそらく、本当の意味は分かっているんだろう。村瀬は会話を打ち切って、運転に集中した。オーディオから流れている音楽は、このカローラフィールダーを貸してくれた岩崎の趣味。ミッシェルガンエレファントのドロップ。里川は高校の同級生、岩崎とは大学で知り合った。同い年で、三十二歳になるが、学生時代を各々のタイミングで終えてからも、晩飯を食べに集まったり、交流は続いていた。里川が犯罪者の仲間入りをしてからは、全てがその方向へと流れた。今や、里川のジーンズには、拳銃が突っ込まれている。しかし、岩崎の車からは、まだ後戻りができた時代からずっと、このバンドの曲が鳴っている。
「何時だ?」
里川は独り言のように呟き、スマートフォンの時計を見て、納得したように宙を向いた。村瀬は自分のスマートフォンをポケットから取り出そうとしたが、傷口が開いたらまずいと思い直して、車載時計で時間を確認した。午後七時半。まだ早い。林道の途中にぽつりと建つ一軒屋だから、深夜ではなく、夕暮れ時を選んだ。遠くで農機具が全力で動いていて、そのエンジン音が山中に響いているのは、逆に好都合だった。道路わきで赤く光る看板に顔を照らされ、村瀬は顔をしかめた。里川がぐるりと首を回して振り向き、言った。
「あー、ちょっと寄ろうぜ」
「正気かお前」
村瀬が言うと、里川はうなずいた。
「昼、食ってねえんだ」
村瀬はチェーン脱着所でフィールダーを転回させると、ため息をつきながら元来た道を引き返した。砂利を鳴らしながら駐車場に入ると、屋根で堂々と光る看板を見上げた。
『喫茶・食事 ドライブイン ユニオン』
里川が言った。
「変わった名前だな」
駐車場には、白色のアルトラパンと、クルーキャブのキャンター、シルバーのレガシィセダンが停まっていた。レガシィの隣にフィールダーを停めた村瀬は、ルームランプを点けて、包帯の様子を確認した。血が滲んでいたら、即通報だろう。ベルトに挟んだ拳銃をトレーナーの裾で隠した里川は、言った。
「ビビってんのか。ちょっとメシ食うだけだ」