ノーサイド
一か月にわかる夏合宿、悟は別メニューの練習からは脱却していたが、前田とのコンディションの差は埋められなかったと感じていたのだ。
しかし……。
「センター、11番、前田」
前田の名前も呼ばれた、突破力を買われてのコンバートだ。
「紺野、おめでとう……スタンドオフは任せるぜ」
ミーティング後、前田がそう声をかけて来た。
「俺はてっきり10番は前田が背負うのかと思ってたよ」
「俺もそう願っていたよ」
「願ってた? 確信はなかったのか?」
「俺のプレーはちょっと単調だからな……お前みたいにとっさの判断が出来ない、どうしたらお前みたいにプレーできるか盗んでやろうと思ってたが、俺には無理だった」
「……そうなのか?……俺にはお前みたいなパワーはない、俺も羨ましかったよ」
「合宿中に監督から言われたんだ、センターにコンバートするってな、俺としてはスタンドオフに未練はたらたらなんだが……いつでもお前からポジションを奪う準備はしておくぜ、安泰だとは思うなよ」
「わかってるよ……だけどポジションを渡すつもりはないよ」
「当たり前だ、自分からポジションを手放す奴なんかいるもんか……ボールを持ったら真っ先に俺を見ろよな、バッチリ突破してやるから」
秋のリーグ戦、悟がスタンドオフに復帰したことでプレーに幅が出来、前田をセンターに据えたことで突破力が増した明央は6戦を終えて全勝、そして追って来る早学大は5勝1敗だが、明央に勝利すれば勝率で並び、更に直接対決の勝敗によって早学の優勝となる、事実上の優勝決定戦となった。
試合は一進一退、シーソーゲームとなり、早学1点リードで80分が経過したが、プレーが続いている限り試合終了とはならない、明央総力を挙げての最後の攻撃に早学は防戦一方となり、思わず反則を犯してしまった、グラウンド右端近くからのペナルティキック、このキックが最後のプレーとなる。
決まれば明央の優勝、外せば早学に優勝をさらわれる。
勝てば大学選手権に駒を進めることができ、負ければその時点で4年生にとっての大学ラグビーは終わりを告げる。
大学ラグビーの今シーズンを締めくくることになるキック……悟は慎重にボールをセットし、練習の成果を信じて……蹴った。
そしてボールは無情にもゴールを外れた……。
「早紀?」
「きっとここに来ると思った」
試合後、観客も、選手も、清掃スタッフさえいなくなったグラウンドに悟は現れた。
すると、早紀が先回りしていたのだ。
「負けちゃったよ」
「惜しかったわね」
「キックの練習、付き合わせてたのに悪かったな」
「そんなこと……」
冬の黄昏が辺りを包み、二人の影を長くグラウンドに伸ばしている。
悟は芝生の匂いを胸深く吸った……冬枯れの芝生……悟にとってはもはや懐かしささえ感じる匂いだ。
スタンドを見渡す……つい2時間ほど前まで、このスタンドは観客で埋まっていた。
独走トライを決めた時に後押ししてくれた歓声が、相手ゴール前まで攻め込んでアタックを繰り返すフィフティーンの士気を鼓舞してくれた興奮が蘇る。
だがそれも今日で終わり、明日からはあの歓声を聞くこともこの匂いをかぐこともなくなる。
明日からは新チームになり、明央大学ラグビー部は再始動する。
背番号10のジャージは自分が先輩から引き継いだように後輩に引き継がれるだろう、そしてそれは綿々と続いて行く、ずっと昔の過去から、ずっと先の未来まで……そして自分はその果てしないドラマ中での役割を今終えたのだ。
「悔い……残ってる?」
「いや……くやしさは当然あるけどな、悔いはないよ」
「4年間、ご苦労様」
「早紀もな」
「明日からどうするの? ヒマになっちゃったね」
「そうだなぁ、差し当たってしたいことって思いつかないや、今日の事しか考えてなかったから」
「でしょうね、大事な試合の前に余計なこと考えてたらあたしも怒っちゃう」
「ははは……それは怖いな」
「差し当たって今日これからだけど……あたしとお茶なんてどう?」
「早紀と?」
「嫌?」
「そんなことないよ、そう言えば早紀とは10年来の付き合いなのにお茶も一緒に飲んだことなかったな」
「1回だけ、あるよ」
「あったっけ?」
「悟がラグビー部の寮に入るって決めた日、ラグビーに本腰を入れるって決めた日……学食のテラスで」
「あれって、缶コーヒー飲んだだけじゃなかったっけ」
「そう、でもあたしには大切な思い出なの、あの時3限目をサボってテラスで話し込んだでしょ? ラグビーの事ばっかりだったけど、ラグビーに打ち込むって決めた悟の顔が輝いて見えた、それだけであたしは幸せだったから」
「……」
悟は早紀を見つめた…………夕日を浴びた早紀は美しく輝いて見えた。
思えば早紀はずっとそばにいてくれた……ケガで苦しんでいる時もずっとそばで支えてくれた……ラグビーの事しか頭になかった俺に一言の文句も言わずに……。
「忘れててごめんな、今日これからのお茶は俺もずっと憶えておくよ、多分、一生」
「ありがとう……」
「行こうか」
「うん」
悟は早紀の肩を抱いてグラウンドを後にした。
「こんなチビの眼鏡っ娘でいいの?」
「あれ、知らなかった? 俺って小柄な眼鏡っ娘ってタイプなんだぜ」
一週間後、悟から早紀へペンダントのプレゼントがあり、それと一緒に『俺と付き合って欲しいんだ』と言う言葉も……。
「ホントに? 気を使ってない?」
「全然……あ、そう言えば……」
「何?」
「早紀の髪って綺麗だよな、中学の時からずっとそう思ってたんだ」
「そういうことは……もっと早く言ってくれればよかったのに……」
そう言って顔を伏せた早紀の頬をきらめくものが一筋流れ、ひとつのドラマのエピローグは新しいドラマのプロローグへとつながって行った……二人だけのドラマへと……。
(終)