十年後
機械を操作していた、頬に傷のあるスキンヘッドの男が手を止める。無表情に二、三度機械を操作するレバーを動かし、無反応の機械を一瞥してから、側面に回りこむ。
マンソン氏はパネルに突き刺さったままの斧から手を離し、数歩下がった。
「彼は今、この機械が壊れた原因を把握しました。ですが、彼には修理する知識も、道具ありません。しかし――」
男はパネルに突き刺さった斧を引き抜き、無造作に足元に落とした。そのまま何もせずに機械を操作していた位置に戻る。
「――この時点で、既に修理を担当する他の囚人へ、故障が伝わりました」
彼と入れ替わりに、大きな金属製の道具箱を持った背の高い黒人が機械に駆け寄った。
機械の電源を落とし、道具箱から取り出したドライバーで手際よくパネルを外して内部を確認する。中で断線したケーブルをつなぎ直し、壊れた部品を道具箱のストックと取り替える。
彼が修理を終えたころに、背の低いがっしりとした黒人が新しい――3Dプリンタで作ったらしい――パネルを持って現れた。
黒人二人はパネルを押さえ、ネジで留めなおす。そして、もと来た方向へ分かれて歩き去った。消防用の斧も元の位置に戻される。
機械を操作していた男は、何もなかったように作業を再開し、新たに一つのパーツを切り抜いた。
「いかがですか? 不測の事態に対しても迅速に対応することができます。どのように行っているか、お分かりですか?」
マンソン氏が機械を破壊してから修理完了までの時間はおよそ五分。誰かが連絡していた様子もなく、囚人の男性はカメラのようなものを身につけているわけでもない。他にも、どの機械のどのパーツが壊れたのか、正確に把握できなければここまで迅速な対応は不可能だ。
「想像もつきません。早すぎます」
マンソン氏は頭をなで上げ、満面の笑みを浮かべた。
「彼らの脳を機械的に接続したのです。互いの認識を共有できるようにね」
「それは……」
「超固体、という言葉をご存知ですか?」
マンソン氏は笑みを浮かべたまま、私の顔を覗き込んだ。
超個体というのは、例えばアリの巣だ。アリは個々の意思を持った個体だが、高度な分業体制によって「巣」という大きな個体が望む行動をとる。このように、一つの大きな生命体としてのコロニーを形成する集団を「超個体」と呼ぶ。
私は頷きながら、彼の浮かべる笑顔の不気味さの理由を理解していた。彼の笑顔は幼い。子供が何かを発見した時のような、純朴で自身の成果を微塵も疑わない、そんな笑顔。
「彼らの社会は人間社会のような、目的がバラバラの集団ではありません。『コロニー』を維持するために全ての個体が存在する。ある意味では、神の作り上げた、完成されたシステムと言えるでしょう」
「……つまり、この場の全員が思考や感覚を共有している、ということですか?」
「そうです。とはいえ、実験段階の簡易的なものです。機械を操作していた囚人番号と、彼が認識した故障の原因が修理の技術を持った囚人へ伝わる。同時にどの機械のどの部品が必要かも、パーツを作る囚人に伝わり、作業を始めます。修理を担当する囚人が他のパーツが必要と認識すれば、それも伝わります。そうして、作業を同時進行することで迅速な修理が可能です。
もちろん、彼らも同意していますよ。非常に合理的なことですからね」
絶句した私を前に、ドクター・マンソンは最高の作品を作り上げた芸術家のように、大きく両手を広げた。
「私はここに、神も作れなかった完全な社会を実現したのですよ。誰も疑問を持たず、一つの集団のために動く、完全な社会をね」
――そう言った彼の目は、今でもよく覚えているよ。長年の夢を実現したように輝いていた。きっと、彼は科学で神を越えることが目標だったんだろうね。
正直なところ、私は彼の研究はすばらしいものだと思う。彼は実験に協力を得やすい囚人たちの厚生施設に利用していたけど、研究が進めば言葉の壁がなくなる日も遠くはない。それどころか、抽象的な概念を言葉に劣化させる必要もなくなる。仕事の間だけ合理的な思考を活性化させることで、仕事に対するストレスもほとんどなくなるだろう。
でも、もしその考えがさらに進んでしまったら、多くの人が感情による痛みをすべて消したいと思ったとしたら? そう考えずにはいられないんだ。
帰りの飛行機中で、君のおじいさんはいつもよりも不機嫌そうに、ずっと煙草をふかしていたよ。
最初の取材から十年がたって、大きくも小さくも、いろいろなことが変わった。君は飛行機を新調して会社を大きくし、きれいな奥さんをもらって、かわいい子供もいる。
私は三人の大統領を取材して、ピューリッツァー賞の代わりに戦地で左目を失った。
あとは……ドクター・マンソンの遺体が発見されてから、もう八年目だ。
彼が受刑者たちに殺されたのか、単なる事故だったのか、あるいは自殺だったのか、いまだにわかっていない。どれもあり得る話だったからね。
でも、あの施設は今でも稼働している。答えが出ないまま時間が経って、結局そのままになってしまった。
あの時の受刑者たちはきっと今でも、最適な自給自足の生活を送っているんだろう。合理化された、機械のような生活をね。
きっと、これからの十年も、良くも悪くも色々なことが起こるだろうね。だから私は、もう一度あそこへ行こうと決めたんだ。『独占取材』のおかげで、ホラ話にされてしまった、あの場所のことを、今度こそ伝えるためにね。
予定の時間は……あと二十分か。そうだな、最後は……ブルームーンは作れるかい?
うん? ああそうか、十年前にもカウンターでも言ったのか。よく覚えているね。君のおじいさんに教えてもらってから、私は、「X・Y・Z」を最後に飲むカクテルに決めていたし、これからもそうだと思う。でも、今はそんな気分ではないんだ。
シェイカーを小気味良い音で振る彼を見ながら、私はグラント氏がカクテルを作る姿を思い出していた。飛行機乗りとバーテンという奇妙な組み合わせは、あの日と変わらず、そこにある。
スミレ色に満ちたグラスを受け取りながら、内ポケットから録音機を取り出す。十年前にも使ったものだ。
「何ですか、それ」
彼の世代では、もう見たこともないのか。
「録音機だよ。ナノマシンなんてSFだったころのね」
もう使ってはいない。だが、これは私の一つの出発点だった。
私が電源を入れ、再生ボタンを押すと十年前のプロペラの音が流れた。
「あの日、取材が終わっても、スイッチを切るのを忘れていたんだ。だから、帰りの飛行機の中まで、録音されていたんだ」
『「X・Y・Z」なんざな――完全なものなんざ、どこにもありゃあしねえんだよ』
プロペラの音の中で、グラント老の言葉が響く。
『――だからな、十年後のテメェにぶん殴られねえように、やれるだけやって生きていりゃあ、それで十分なのさ。そっから先は』
音声が途切れ、画面が明滅する。何度再生しても、ここまでしか再生されない。
受け取ったグラスに口をつけ、わずかに泡立つ澄んだ紫の液体をのどに流す。少し強すぎるスミレの香りが鼻を通り過ぎる。私の言葉を待つ彼の顔を見て、自然と顔が笑った。