朝日輝く
パトカーが見えました。彼女は自分が立っているのが、三日前の朝と同じ車両なのか確かめようとしましたが、何をどう考えてみれば確認できるのか分かりませんでした。ドラマで見るのと同じ、ニュースで見るのと同じ、立ち入り禁止の黄色いテープ。紺色の作業着を着た警察官たちが、腰まで水に浸かって川底をさらっています。隣に立っている男性が、少し身を乗り出すようにしてそれを見ているのが分かりました。電車は数秒で多摩川を渡りきり、パトカーも警察官も見えなくなりました。
彼女は次の駅で降りました。
ベンチに座って、去って行く電車を眺めていて初めて、さっきまで乗っていたのは最後尾の車両だったことが分かりました。毎日同じ位置に立って電車を待っているのに、それに気づいたことはありませんでした。
不意に吐き気を覚えて、彼女は鞄を抱いてうずくまりました。彼女の頭をかすめるように、誰かが前を横切っていきます。彼女が少しだけ視線を上げると、濃い灰色のスーツを着た男性が早足で過ぎ去っていくところでした。左手にはスポーツ新聞、靴はぴかぴかに磨かれているのに鞄は傷だらけ、薬指には銀色の指輪。半分ほどが白くなった頭髪を短く刈り込んで、怒ったように肩を左右に揺らして歩いていきます。若い母親と未就学であろう女の子が手を繋いで歩いてきます。女の子は母親の手を振りながら、いやだいやだいやだいやだ、と繰り返していますが、母親は取り合いません。母親の耳にはシンプルな真珠のピアス、女の子の背負う鞄は昔ながらの高価な子供向けブランドのもの、外は晴れて、涼しく、背中に当たる陽光だけが熱く、彼女は、自分が東を向いているのに気がつきました。多摩川はもう見えません。
彼女は頭の中で、乗り換え駅での自分の動作をゆっくり再生してみました。そして自分が毎日東南向きの窓に向かって立っていることを、きちんと考えて、理解しました。そしてあの日、あの男性を見たとき、自分が眩しくて目を細めていたことを、朝日にぎらぎら輝く水面を、眩しく見つめていたことを、思い出しました。そして今朝もそうして眩しく思ったはずなのに、それに気づかなかったことを。あれを見たのは自分の思い違いではなかったこと、それを自分は見て見ぬふりをしたということ、ニュースで言われていることはどこかで本当に起こったことなのだということ。自分が世界に生きているのだ、世界と自分は無関係ではないのだということを、彼女は二十五年ほどの人生の中で、生まれて初めて知ったのでした。
*
そこまで語り終えて、その人は薄く微笑んだ。私はしばらくまばたきだけを続けていたが、なんとか「……そして?」と尋ねた。
「そして、彼女は生まれ変わったんです。自分が世界のすべてに見て見ぬふりをしていたのに恥じて、自分がどっちを向いて立っているのかも知らなかったことを恥じて。次の週には会社に辞表を出して、児童虐待防止団体に飛び込みました。それから先は、あなたもご存知のとおりです。私は別人のように一生懸命働きました」
目の前にいるその人は、私のもっとも尊敬する女性の一人だった。主に児童虐待、それも性的虐待の実態を暴き、その撲滅に尽力する一方、四人の子供を内縁のパートナーとともに育て上げた。その全員が様々な分野の第一線で活躍している。その小柄でかわいらしい外見からは想像もつかない力強い語り口が支持され、海外のスピーチ番組に呼ばれた時の映像は、その番組内でトップテンに入る再生回数を記録した。国からも長年の功績が認められ、褒章が授与されている。そして六十五歳で後進に道を譲ってから二十年近くが経ち、今、彼女はこの施設で体の痛みを取りながら残された時間を過ごしていた。
最後のインタビューだと思っています、とその人は最初に言った。私はうなずき、彼女の最後のインタビュアーになれるなんて光栄だと、張り切って質問を投げかけた。彼女も車いすから半ば身を乗り出すようにして熱心に答えてくれた。
そして、何度も聞かれたかもしれませんが、と前置きしてから、「二十代で団体に入るまではごくごく普通の会社員だった、と強調されていますよね。どうして変わることができたんでしょうか?」と投げかけると、彼女はふと遠くを見てから、「もう最後だし、あなたになら話してもいいかもしれません。今まで誰にも話したことはないのだけど」と静かに言い、そして、その話を始めたのだった。彼女が見た殺人のことを。
「ああ……その直後の話で言えば、もちろん警察に連絡して、見たままのことを話しました。正直に、自分が見たものに自信がなくて通報できなかったと告白したら、よくあることだと言われましたよ。でも自分を許すことはできなかった。私がすぐ通報していたら、被害者の女性は冷たい水の底で何日も沈んでいなかったかもしれない。加害者が自死を選ぶ前に警察が彼を説得できたかもしれない。そう思えばね」
「それでなぜ……児童虐待だったんでしょう?」
我ながら間抜けな質問だったが、彼女は微笑んで答えた。「この世に見て見ぬふりをされているものたちはたくさんありますが、その中でももっとも他人の手助けを必要としているひとたちの味方になりたかったのです。でもまあ、何でもよかったのですよ。世界と自分が地続きであることに気づいたのなら、世界の抱える問題のすべてが自分の問題になるのですから。今でも私は、飢餓や環境汚染や人種差別に対して自分が何もしてこなかったことに、叫び出しそうなほど辛い気持ちになることがあります」
私は黙り込んだ。自分が何を聞きたかったのか忘れかけていた。言葉が出てこない様子を悟って、彼女は車いすを動かして私に近づき、手を取った。「ごめんなさいね、こんなこと話して。今の話を書いてもいいし、書かなくてもいいんですよ。似たようなことは何度も聞かれていて、そのたびに違う話をしてきましたから。でも今のが本当、本当の話です。私の人生の中で最も重要な記憶です」
それからしばらくの間、私と彼女は手を取り合ったまま、窓の外の新緑を眺めていた。「東向きのお部屋を選んだんですよ」と彼女は言った。「朝日が昇ってくるのを見るのが何より好きなんです。子供たちを育てている間、私はよく、夜明けが一番の救いのように感じていましたよ」
気を取り直してインタビューの続きをして、もう一度握手をしてから、私と彼女は別れた。個室のドアを閉め、深呼吸をすると、オレンジ色のスカートの女性が歩み寄ってきた。インタビューの前に部屋に案内してくれた、彼女の孫の一人だ。
「お疲れさまでした。どうでしたか?」
「ええ、とても……興味深い話を聞けました」
私が一瞬ためらうような仕草を見せたのを、その女性は感じ取ったようだった。女性は意味ありげに微笑んで、「入り口までご一緒しましょう」と私を促した。
「あのお話を聞かれたのでしょう?」
「……あの?」と私は慎重に答えた。女性はそんな私がおかしかったのかアハハと快活に笑って、「殺人の話ですよ。多摩川の話。あのひと、気に入った相手には結構よく話すんですよ。まあ、八十を過ぎてから急に話すようになったんですけど」