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泉絵師 遙夏
泉絵師 遙夏
novelistID. 42743
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久遠の時空(とき)をかさねて ~Quonฯ Eterno~下

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5. 出帆


 それは、あまりにこの場にそぐわないものだった。子供の遊び道具であるビー玉が、操舵室という船の中枢にあるというのは。
 かつて船員か船長の子供が同乗していて、ここに連れて来てもらったときの失くし物なのだろうか。いずれにしても、マルカが確認したところ、室内には誰もいないということだった。窓から見た上部甲板も無人だったらしい。
 船が揺れた拍子に何かが落ちるかずれるかしただけだろうということになった。
 外で銅鑼の音が聞こえる。出港するようだ。
 それにしても、何とも古風な船出の合図だ。桟橋側の窓から覗くと、すでに船と陸を繋いでいた縄は解かれていた。
 汽笛がひときわ高く響く。
 鳴り渡る銅鑼の音、回り出す舵輪と、それが水を跳ね上げる音。
 船体がゆっくりと桟橋を離れる。
 見送る側と見送られる側で交わされるテープもなく、船と桟橋の間の水面が広がる。
 思っていたよりも早いスピードで、岸壁が遠ざかって行く。
 操舵室では、無人のまま舵輪が回転していた。
 それを見ても、暖野は不気味さを感じなかった。電車も勝手に動いていたのだし、今更驚くほどのことでもない。むしろ先日嘉蘭梵(カランボン)へ行くバスに乗った際、運転手がいたことに驚いたくらいなのだから。
 暖野は窓外に向き直り、町の拡がりを眺めた。湖に沿い、かなりの規模の町だったことが今更ながらに分かった。行ったことのない駅より先、そして丘の上。買い物に行こうと思いつつも、結局行けなかった。
 名残惜しさがないとは言えなかった。未知への旅立ちにはつきものの希望と不安の混じり合った複雑な感情を暖野も抱いていた。
 暖野はデッキに出た。
 どれくらいの速度が出ているのかは分からないが、風が強い。
 遠ざかる町の一角に、つい今朝まで過ごしていた眺夕舘が見えた。屋上のパラソルが目印だった。
 暖野は心の裡でもう一度、ありがとうと言った。
 町が遠ざかって行く。そして船は徐々に左手に向きを変え始める。沙里葉ではない方へと。煙突からは真っ黒な煙が吐き出され、時おり火の粉も混じっているのが見えた。加速に伴ってフル回転しているからだろう。
 舵輪が水を巻き上げ、飛沫が陽光に輝く。白い航跡が緩やかな曲線を描いている。
 船尾からは、いつからあったのだろう、水色と黄色のテープがなびいていた。あたかも見えない誰かが二人の船出を祝してくれたかのように。
 マルカは船内を見てくると言って下に行き、今は暖野一人だった。
 左舷に見えていた町並みもやがて途切れ、再び切り立った崖が続くようになった。実際にそこを通るのは厳しいが、船上から眺めている分にはちょっとした観光気分でいられる。
 以前のように線路がそこにあるのかは、ここからは分からなかった。
「そうだ」
 暖野は思いついて操舵室に戻る。
 そこに絶対あるはずのもの。映画などで船長が必ず使う装備。
 双眼鏡は、最前面の窓の前にあった。暖野はそれを目に当て、湖岸の方を見やる。線路は途切れ途切れながらも崖の上を通っているようだ。前方を見やると、左手の陸地以外は全て青い水面だった。
「返して」
 背後で声がした。「それ、僕の」
 振り返る。誰もいない。
 マルカがそのような物言いをするはずもない。
「返して」
 もう一度、それは聞こえた。
 何かの装置に半ば隠れて、その声の主はいた。
 子供だった。それも、まだ小学校低学年くらいの。
「これ、あなたのなの?」
 暖野は手にした双眼鏡を示した。
 男の子は暖野を強く睨みつけていたかと思うと、いきなり双眼鏡を奪い取った。手にかけていた紐がひっかかり、暖野は前のめりになる。男の子はそのまま外へ走り去った。
「ちょっと、待って!」
 急いで後を追う。
 甲板へのドアを開けた時、そこにはもう男の子の姿はなかった。
 少し捜してはみたが、どこにも見当たらない。先ほど紐が引っかかった手首が赤く擦り傷になっている。
 船尾甲板への階段を降りている時、船室のドアが開くのが見えた。急いで残りの数段を駆け降りる。
 マルカだった。
「ああ、ノンノ――」
 マルカが言いかけるのを、暖野は遮る。
「マルカ、見なかった?」
 何のことか分からず、マルカはきょとんとしている。
「見たって、何をです?」
「男の子よ。双眼鏡持った」
「男の子ですって? この船には他にも人が乗っていたんですか?」
「私もびっくりしたわ。まさか人がいるなんて思わなかったから」
「それで、その子供はどこへ行ったんです?」
「それを今、探してるところなのよ」
 マルカが考える目をする。
「私が見たどこにも人はいませんでしたし、そんな姿も見かけませんでしたね」
「でも、確かにいたのよ」
 暖野は右手首の擦り傷を見せた。
「これは?」
「その時のものよ」
「消毒した方が良さそうです。さっき救護室を見つけました」
「そんな。これくらい放っておけばすぐに治るわ」
「念のためということもあります」
 好意に対して議論しても意味がない。暖野はそれに従うことにした。
「つっ……」
 救護室で消毒液に浸された脱脂綿を当てられ、顔を顰める。革紐に擦られた跡は赤黒くなり、少しだが血が滲んでいた。
「でもあの子、どこに行ったんだろう?」
 薬を塗った上に包帯を巻いてもらいながら、暖野は言った。
「どうして逃げたのでしょうか?」
「さあ、怖かったのかな? 知らない人が来たから」
 そうではないだろうと、暖野は思う。双眼鏡を持つ暖野を見る目には、激しい怒りとも憎悪ともとれる眼光が宿っていた。
 そりゃ、自分の宝物を奪われたと思ったら、そうなるわよね――
 だが、そうでもない気がする。そこに怒りはあっても憎しみの感情が混じるようなことはないはずだ。
 男の子は、ちょっと分からないな――
 暖野はマルカに助けを仰いだ。
「なるほど」
 マルカが言う。「その子供は、ノンノにおもちゃを奪われたと感じたのかも知れないと。でもノンノの言うように、腹を立てることはあっても憎いとは思わないでしょうね。単純に敵だと認識するはずです」
「会っていきなり敵扱いされたのね、私」
「男の子というのは、女の子に較べて物に対する執着が強いですので」
 ああ、それは分かると、暖野は思った。
 暖野の小学生時代、同級生の男の子たちは何やら意味不明なものを集めては自慢し合っていた。時にはそれを巡って喧嘩までしていた。
「何とか見つけられないかしら」
「どうせ逃げ場はないのですし、また出てくるとは思いますが」
「とっ捕まえようって訳じゃないのよ。謝った方がいいかなと思って」
「ノンノは――」
「置いてあっただけとは言え、あの子のものを勝手に使ったのは事実なんだし」
「人が良すぎですよ」
「そうかしら?」
「そうですよ」
 無理に捜そうとしても、きっと逃げ回るだけだろう。船内には子供が隠れられる場所は幾らでもある。
 だが、もう一度会えそうな場所が一つだけあった。
「上へ行ってみましょう」
 暖野は言った。
 操舵室。ひょっとするとあそこは、あの子の基地なのかも知れないと、暖野は思った。
 上部甲板へ昇ると風は先ほどよりも強くなっていた。見える岸辺も遠くなっている。