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大地は雨をうけとめる 第8章 魂の抜け殻

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「え、でも……」パルシェムは彼女がまとった威厳にたじろぐ。「父が……」
 どうやら、ケテルス・ヌスティに何か言い含められているらしい。
「私が口添えしてやろう」トリスタンが言った。「直接私が言うと嫌がるだろうが……そうだな、エディヴァリ様を通してなら、ケテルスもきいてくれるだろう。どうも、私は彼に嫌われているらしい」


 二人が帰った後でトリスタンはすぐにエディヴァリ・ミナセに書状をしたため、デナンがミナセ家に使いに立った。エディヴァリもすぐにヌスティ家に働きかけてくれたのだろう。
 翌日、へゼナードは父のいる故郷ペトラルに発った。彼はピスカージェンを出る前に、アビュー家に寄ってくれた。
 アニスの様子に変わりがないか、気にしているのだろう。トリスタンが不在で、応対したルシャデールに何度も頭を下げる。
「養父が言ったように、あなたのせいじゃない。責任をとろうとか、考えなくてもいいよ。ペトラルまで何日かかる?」
「普通は十日ぐらいです」
「そうか。急がないといけないね。道中気をつけてお行き」
 へゼナードは行こうとして、ふと、思い出したように振り返った。
「イスファハンが……言っていました。『御寮様に捨てられたような気がする』と」
「え?」
「彼は……御寮様が遠い存在になったように感じていたようです」
「ええっ!?」 
 ルシャデールは思わず声を上げた。
 遠ざかっていったのはアニスの方じゃないのか。
「私たち小侍従は……心を許せる者が多くはありません。同じ立場の人間が屋敷の中にいません。アビュー様ではわかりませんが、弱みを見せるな、他家の小侍従にも心を許すな、と、常に主人やその侍従から言われます。他の使用人からは、根拠のないやっかみや、中傷を受けて、孤立しています。それでも、自分の主人に必要とされることが、大きな支えになっています。もし、主人に背を向けられたら……」
 私の振る舞いが彼を苦しめていた?
 ルシャデールは困惑して、何も言えなかった。
「彼は、オリンジェとかいう娘より、御寮様の方が大事だったのだと思います」
 へゼナードはそれだけ言うと、頭を下げて歩いて行った


「カズック、頼みがある」その晩、ルシャデールは呼びかけた。
「何だ?」
「これをソワムの父親に届けてやってほしい」
 ルシャデールは小さな封筒を差し出した。カズックはふん、と匂いをかぐ。
「三蛇草にエテルマニ、それからポステデム、だな。肺を病んでいるのか」
「うん。労咳ではないと思う。ソワムが着くまで、延ばしてやりたい。行けるものなら私が行くけど、それじゃ時間がかかる。おまえならできるだろ」
 カズックはルシャデールの顔と封筒を見比べていたが、小さく息をついた。
「まあ、な。病気を治してやってくれ、なんて言われても断るが。『天女《アプセラ》様』の使い走りぐらいならやってやる」
「処方も教えてやってくれるね?」
「当たり前だ。俺を何だと思ってる?」
「神と呼ばれて迷惑している、気のいい使い走りのキツネちゃん」
「『ちゃん』づけはやめろ」
 そう言い置いて、カズックは封筒を口にくわえて消えた。
 どうしてソワムはユフェリから戻って来て、アニスは戻れなかったのか。わかるような気がした。ソワムは戻らねばならない理由があった。しかし、アニスには、なかったのだろう。
『オリンジェとかいう子よりも、御寮様の方がずっと大事だったのだと思います』 
 大事に思ってくれるなら、帰って来てくれればいいのに。それとも、他に帰りたくない理由があったんだろうか。
 穏やかで心根のやさしいアニス。ルシャデールが考える以上に侍従という職務が重荷だったのかもしれない。
 ルシャデールはガウンを羽織り、アニスのいる客間に行ってみる。彼はもう眠っていたが、その横で寝ていたインディリムが身を起こした。今夜の当番に当たっているらしい。
「御寮様」
「よく寝ているね」
「はい。起こさなければ朝までぐっすりです」
「すまないね、昼も仕事してるのに」
 眠っている顔は以前のアニス、そのままだった。狂っているとは思えない。どんな夢を見ているのだろう。うっすらと微笑んでいる。
 一人、部屋に戻ったルシャデールは、扉にもたれ、天井に向かってためいきをつく。
 戻ってくるのだろうか? まさか、ずっとこのまま……。
 背中に寒気が走る。そうなったら、他に誰が侍従をするのか。そう考えて気がついた。
 パルシェムと同じだ。私も結局、自分のことしか考えていないのかもしれない。シリンデの言うとおりだ。
 廊下で音がした。扉をそっとあけると、デナンがグラスと瓶を乗せた盆を持って、階段を降りようとしていた。ちらりとルシャデールの方を見たが、そのまま行ってしまった。
 トリスタンはめったに酒を飲まない。急な病人が来た時に備えてのことだ。気になって、部屋に行ってみると、彼はソファに座ってうなだれていた。
「酒ぐらい好きに飲ませてくれ」
 ルシャデールの足音をデナンだと思ったのか、うつむいたまま言った。
「トリスタン……」
 侍従とは違う声に、トリスタンは顔を上げたが、叱られた子供のようだった。一瞬目を伏せ、それからもう一度、彼女を見た時には、少しいつもの彼が戻っていた。
「ふふ。みっともないところを見られたな」苦笑いする。
「そうだね。でも、そういうあなたも悪くない」ルシャデールも笑う。
 養父は今度の事にひどく落ち込んでいるようだった。
「すまない……」
「何が?」
「私にはアニサードを治してやることはできない。名高い癒し手などと言われているが、この程度だ。大事な……君の大事なアニサードを、どうにもしてやれない」
「トリスタン……」
 ルシャデールは養父のそばにしゃがみこんだ。
「ソワムに言ってたじゃないか。君のせいじゃないって。今回のことは……あなたのせいでも何でもない」
 もし誰かの責任だとすれば、それは私だ。
「あなたのせいじゃない。どんなに腕のいい癒し手でも、治せない病気はあるんだから」
「わかっている。だけど、大切な人間を治すこともできなくて、なんのための癒し手なんだ? 役立たずの癒し手。ヌスティの言う通りだ。そう思わないか?」
 言いたいことは理解できる。だが、彼女は強く否定した。
「思わない! ヌスティのナマズじじいが言うことなんか、糞くらえだ! あなたは立派にやっている!」
 トリスタンは優しい分、繊細だ。きっと、ヌスティの言動にも傷ついていたに違いない。
「立派に……やっているかい、私は? 君からみて?」
 言いつけられたことを、ちゃんとできたか、親に確かめようとする子供のようだった。
「最上だよ。癒し手として。それに……」ルシャデールはちょっと言いよどんだ。「父親としても」
 重く沈んだ気がふうっと昇華していく。
「本当に?」トリスタンの問いは彼女の最後の言葉に向けられたものだ。
 ちょっと照れくさかったが、うん、とうなずいた。
「おやすみ」答えずに部屋を出ると、少し離れたところにデナンがいた。親子の話が終わるのを待っていたのだろう。
「ありがとうございます。これで御前様もよく眠れることと思います」