妄想恋愛
大切、京子のその言葉が変な味わいを残し私の心に残った。私はゆっくり頬から手を離して頷く。
「大切なはずだったの。この世の中で一番。」
私はふと汽車の天井を見上げた。今もあの日のように雪が降っているのだろうか、そんなくだらない疑問が、恋愛ボケしている私の鈍い頭に湧いた。
「はずって・・・。大切なんでしょ?」
私は首を縦に振った。
「でもね、思っているだけじゃ大切にしていた事実にはならないの。」
「へえ。」
私の言っていることが分からないと言うように京子はてきとうに相槌を打った。けれど私の言葉は止まらない。
「いくら大切に思っていたって、大切にできるかどうかは分からない。自分の世界の中だけで相手を愛したって、いつの間にか相手は居なくなってしまうの。恋は盲目だって言うけど、きっとそれは相手を勝手に自分の心に住ませて心の中にいる相手と恋愛してしまうことだと思うわ。だって心の中の相手は自分の思うままに動いてくれるんだもの。」
京子は私を凝視した。
「どうしたの?」
「結子ちゃんって色々なこと考えて生きているのね。」
感嘆の声を漏らしながら京子は言った。
「そりゃね・・・。」
京子は私の過ちを知らない。だからきっとこんなのんきなことが言えるのだろう。今更こんなことを言ったって、文太郎にしてしまったことは消えない。それにも関わらずまるで懺悔するかのようにべらべらと他人に自分の恋愛論を話す自分の馬鹿さ加減に私は笑みを漏らした。
「大切にすることって自己満足だと思っていたわ。」
京子はぼそっと言った。
「え?」
自己満足、そんな私の今までの価値観を真っ向から否定する単語は私を驚かせた。
「自分はこんなにも好きな人を大切にしているんだぞ、って見栄を張るみたいに生きていたってさ、どうせ人間は他人を大切になんてできるはずないもの。だって自分が一番大切で可愛くて、他人の気持ちなんて読めないじゃない。大切にするなんて幻想よ。」
私の脳裏には文太郎との日々が浮かび上がる。私は、確かに文太郎に大切にされていた。彼は私を守り私と共に生きようとしてくれた。そんな文太郎の行動は私を大切にしているということ以外何というのだろうか。
「そんなことないわ。」
私は京子を見た。
「そんなことない。」
そして笑顔でもう一度言った。その笑顔に京子ははっとした顔をした。
「そうよね。結子ちゃんは大切にされていたわよね。」
京子は少し悲しそうな笑みを浮かべ俯いた。
「私とは違うわよね。」
さっき京子は私が文太郎のことを考えていたことに気が付いた。けれど私は今京子が何を思い考えているのか分からない。私はあまりにも彼女の過去を知らなさすぎる。同じハンセン病患者なのに、私は恵まれすぎていた。
「京子ちゃん・・。」
私が口を開いた時、汽車は急に止まり私たちは体が揺さぶられた。
そして汽車の扉があく。
「着いたのかな?」
京子は外を覗き込み、もうさっきまでのことを忘れてしまったようだった。けれど私は未だ京子の言った自己満足、という言葉が胸に突っかかっていた。
見張り役が私たちを外へ誘導した。その間にも私は何度か京子にさっきの話をしようかと思ったが、なんと声をかけてよいのか分からず結局私は京子にその話題を振ることはなかった。
私たちは群馬県の栗生楽泉園に送られた。施設に着くや否やすぐに服を脱がされハンセン病の症状を聞かれ検査を受けさせられた。私は症状が軽度だったため治療をだいぶ先延ばしにされることになった。治療と言っても大風子油という薬を注射器で打つだけだったが。
栗生楽泉園では希望者には偽名を使うことが許されていた。それは残してきた家族がハンセン病患者の家族として知られ世間から差別されることを避けるためであった。私は偽名を名乗ることを望まなかった。もちろん自分の家族を守りたいと思う気持ちはあったがそれ以上に母の教えである病気に負けずに凛としなさい、という言葉は私に名前を変えることをさせなかった。名前を変えてしまっては自分の心情も過去も変えてしまうような気がした。なにより、結子、と彼に呼ばれた過去が消え去ってしまう気がした。
各部屋には軽度、中度、重度の人間5,6人で構成されていて、各部屋に一人親方と呼ばれる人がいた。親方の言うことは絶対で、軽度の人間は重度の人間を世話する患者作業というものをしなくてはいけなかった。私の部屋には寝たきりの重度が二人、中度が二人、そして軽度が私一人だった。親方は中度のうちの一人で私に重度二人の世話を押しつけた。
重度のうちの一人はいつも人形を抱きかかえていたのでぎょうさんと言われていた。もう一人は顔が変形し舌がいつもむき出しだったのでべーと呼ばれていた。二人とも歳は60過ぎで感覚まひや神経衰弱が酷かった。
「大変ね。」
京子は私の良き友達として私の話を聞いてくれた。栗生楽泉園には小さな公園があって私たちは良くそこで話をした。
「京子ちゃんは患者作業はないの?」
「私は中度だからね。」
私は少しだけ京子を羨ましく思ったがその心情は彼女には伝えなかった。病気で苦しんでいる彼女に羨ましいなんて言えるわけがない。
「名前は何にしたの?」
私は京子に聞いた。
「結子ちゃんは変えてないでしょ?」
「うん。」
「だと思った。私もよ。」
「え・・・?」
差別されてきた過去を忘れたいはずである彼女が名前を変えていないことに私は少し驚いた。京子は少し照れ臭そうに笑う。
「私、あなたの生き方が大好きよ。」
そう言うと京子は立ち上がって尻に着いた土をほろった。
「またね。」
そそくさとその場を去る京子に私はうん、とか細い声で返事をした。少しだけ患者作業の憂鬱さが忘れられたような気がして、私は立ち去る京子の背中を見て自然と笑顔になった。
驚くことに栗生楽泉園には一つの社会が出来ていた。商店街には洋服や日用品、理髪店があって同じハンセン病患者によって営まれていた。そこでは栗生楽泉園内でしか使えないお金が使われていて、そのお金は私たちの逃亡を防ぐ狙いがあった様だった。もちろん農作業や患者作業は苦痛だったが、自分と同じハンセン病患者しかいないこの社会は前居た差別や偏見に満ちたあの社会より、何だか居心地が良いようにも思えた。けれどやはり人の世話をするというのは大変で耐えきれないものがあった。いくら親身になって世話をしても一向に私の方を見ようとはせず、ずっと人形を抱いたままぼうっとしているぎょうさん、どんなものでも出しっぱなしの舌で舐めるべーさんは私の心労を体中に積もらせた。邪険にできず行った見返りのない労りは、いつも彼女たちを通り過ぎ色を濁して私の元へ帰ってくる。その泥水のような私の親切は私を一度も幸福にはしなかった。私はこの不満を彼女たちにぶつけてしまわないようにはち切れそうなほど手に力を込めていた。
毎晩決まった時間に私は起きて彼女たちの身体を動かした。寝返りが打てない彼女たちの身体は長時間同じ体勢で寝てしまうと血液が固まってしまう。時たまあげる苦しそうな彼女たちの声で私は起きていた。
「大丈夫?」