妄想恋愛
私は返答がないことが分かっていながら彼女たちの背中をさする。薄汚れたぎょうさんの人形と目が合って私は少し背筋が凍った。こんなにも寒いのにぎょうさんは寝汗をかいていた。
「ぎょうさん、着替えようね。」
私が未だ眠り続ける彼女の服を脱げせるために両手で抱きしめている人形に手を伸ばした。私が人形に触れたとたん彼女は今まで見たことがないほど目を見開いた。
「さわるな!」
少ししゃがれた声を上げぎょうさんは私を突き飛ばした。
「私の赤ちゃん、赤ちゃん・・・。」
私が驚いて顔をあげるとぎょうさんは人形の頭を優しくなでていた。私はそんなぎょうさんの態度に心の底から腹が立った。そんなに力があるのなら私の世話なんて要らないじゃないか、私は彼女に手をかけることが嫌になり一つため息をつくと彼女から離れてべーさんの元に行った。
こんなにもうるさいのに中度の患者たちは起きない。きっと重度患者の呻き声になれてしまっているのだろう。べーさんは目を開け天井を見ていた。
「動かすよ。」
私はべーさんに声をかけた。相変わらずべーさんは何も言わない。べーさんの身体を持つとチクリと私は自分の右手に痛みを感じた。右手薬指の腹に切り傷が出来ていた。きっとさっき投げ飛ばされたときどこかで切ってしまったのだろう。血がにじんでしまった。私はいったんべーさんを床に戻した。血が垂れて手の甲にまでいきわたる。こんな時文太郎がそばに居たら駆け寄って手当してくれただろう、なんてどうしようもないことを一瞬だけ考えた。
「ごめんね、ちょっと待っていてね。」
私がべーさんの元から立ち手を洗おうとすると、べーさんが私の右腕を掴んだ。
「え」
私が声を出した次の瞬間、べーさんは私の傷口を舐めた。
「やめて!」
私はその身の毛のよだつ彼女の行動で思い切り彼女から手を引っ込める。よだれでべとべとして気持ちが悪い。最悪だ、そう思い自分の手から目を離しべーさんを見るとべーさんは私をまっすぐに見ていた。これまでべーさんからそんな視線を感じたことがなかったので私は思わずたじろいだ。べーさんは私の手に目を移す。血が垂れて何滴か床に落ちてしまっている。私はべーさんから逃げるように急いで手洗い場に行った。手を洗う間に私は何度もべーさんの視線を思い出した。怒りも悲しみもその視線からは感じられなかったけれど、私は彼女の親切心を垣間見た気がして、とてもいけないことをしてしまったのだと自分を責めた。私の後悔の念のように指の腹から流れ出る血液は止まらない。
「あれ、どうしたの?」
背後からひょっこりと私の手元を覗き込みながら京子は言った。
「ちょっといろいろあって・・・。」
私は苦笑いしながら言った。
「ちょっとのレベルじゃないでしょこの出血量。」
呆れ顔をしながら京子は私の頭を撫でた。
「話してよ。」
私はまたべーさんの視線を思い出して心臓が押しつぶされそうになった。
「そんな顔しないで。」
優しい京子の気遣いに私は頷いた。
私はさっきあった出来事を全て京子に話した。
「結子ちゃんの気持ちはすごくよくわかるわ。」
頷きながら京子は言った。
「他人の背景なんて知っていても心は当事者にしかわからないものね。」
「背景?」
私は京子の言っていることが分からず聞き返した。
「あれ、もしかして知らないの?何でぎょうさんは人形いつも持っているのか。」
私は頷いた。
「ああ、そうだったの。」
「何か理由があるの?」
何故ぎょうさんはいつも人形を持っているのか考えたこともないことに私は気が付いた。
「ぎょうさんは身ごもっていた子供を無理やり中絶させられておまけに堕胎手術まで受けさせられたのよ。」
「え・・・。」
私はその悲しい衝撃的な言葉にかなり驚かされた。
「だからぎょうさんは未だにショックで人形を抱いているのよ。」
私はぎょうさんが叫んだ言葉を思い出した。
「だから、私の赤ちゃんって言っていたのね・・・。」
京子は頷いた。
「きっと今も忘れられないんだろうね、ハンセン病ってだけで女の権利まで奪われるなんてどうかしているわ。」
ぎょうさんの心情を思うと私は胸が詰まる思いがした。我が子に向けたかった、行き場のないぎょうさんの愛情は今もなお人形に注がれている。もちろん人形は動き出すどころかぎょうさんと心を通じ合わせることもない。私は下唇を噛んだ。
「見返りがない患者作業だけど、ちゃんとまっとうしていて結子ちゃんは本当に偉いわ。」
京子のその言葉に私は首を横に振った。
「全然だめよ。私は知らない間に見返りを求めていた。」
「当たり前じゃない、人間なんだから。」
私の言葉に被せるように京子は言った。
「見返りを求めたっていいじゃない。そうやって自分を責めるから自分が苦しくなってくるのよ。人間出来ることに限度はあるし、心を壊してまでするべきことなんてないはずよ。結子ちゃんは頑張っているんだから、あんまり自分を責めないで。」
私は深くため息をついた。京子の慰めがじんわりと心を温める。人間は些細なことで自分を見失いやすい。物事を完璧になんてできないことや偽善の心が湧いてしまうことはしょうがないと、どうしていつの間にか忘れてしまっていたのだろう。文太郎と離れ彼を恋しく思う日々の中で心が疲れてしまったようだった。
「ありがとう。」
私は京子に礼を言った。
「いいのよ、最近結子ちゃん元気なかったからね。きっと色々思うことはあるんだろうけど良かったら何でも話してね。」
色々、その言葉の真意を京子から感じ取る。月に一度面会に来る母は文太郎からの手紙を毎回持っていない。届いてないんだと少し気まずそうに話す母の様子は私に余計な心配をするなと遠回しに伝えているが、そんなことは無理である。便りが来ないことは彼の死を意味しているようで、私は毎晩真っ暗闇で彼を想い身体を震わせ、月に彼の無事を祈っていた。
私は京子にありがとうと伝えると血が止まった傷口に包帯を巻いて部屋に戻った。ぎょうさんを見ると寝ているはずなのにいつもより人形を抱く力が強まっている様だった。彼女の過去の苦しみはきっと私には理解できない。けれどぎょうさんの強まる腕の力でひしひしと痛みが伝わってくる。どれほど辛かったのだろうか、人形の汚さやボロさで私は彼女が苦しんだ歳月の長さを感じ取る。私は心の中で先ほどの無礼をわび、べーさんの方へ体を向けた。べーさんは未だ起きていた様で目を見開いて天井を見た。
「べーさん、さっきはごめんなさい。」
私はべーさんに謝った。いつものごとく反応はないだろう、そんな私の予想とは反して彼女は首を横にして私を見た。
そして私の怪我をした手に曲がり切った指を重ねる。
相変わらず表情は何も変わらない。