妄想恋愛
でもこの男どもに連れていかれ収容所に入ることがハンセン病を患った人間の生き方ならば、私はその運命に従います。そして抗うことのできない自分の人生の中に幸福を見つけます。私は絶対に自分の不幸なんかに負けない。だって彼を愛していたから。彼がくれた人生の喜びは、私に訪れた不幸を一瞬で蒸発させるほどの情熱を私に与えてくれたから。」
私は群衆の中に涙を流す彼の両親を見つけた。
「最後の時まで、市川文太郎の女として私は生きます。彼がわけてくれたあの強い志が私の心の中で生きているから。
彼の生き方を知っている者の前に出ても恥じぬよう、私は前を向いて胸を張って生きる。彼がそう生きてきたように。」
私は彼の両親から最後まで目を逸らさなかった。彼の母が泣き崩れたのを見届けると私は男どもの元へ戻った。
「戦争さえなければねぇ」
そんな声がどこからか聞こえてきた。
戦争さえなければ何なのだ?戦争がなかったら私を助けてくれたのか?
私を差別してきた者は私の目を見ない。
―目を背けるのは死んであの世に行く時だけでいい。
彼はそう言った。
私は生きている限り目を逸らさない、過去にも未来にも今にも。彼に結子と初めて呼ばれたあの時、私はそう決めた。それが彼と共に生きるという事なのだと私は思うから。
私は男たちに連れられお召し列車と書いてある汽車に乗った。一般客とは隔離され、まるで荷物のように乗せられていく私と同じ病を患う人々は、私が考えているよりもずっと人数が多かった。そこで私は、自分の今まで悩んできた腕や顔のあざが軽症であり、確かに私は健常な人に比べれば手の感覚が鈍いが、私の症状は悩むほどの事ではなかったことを知った。
ハンセン病に呻き苦しむ人々に何もできなかった私はただ薄暗い汽車の中で、これから先私はどうなるのだろうかと考えた。きっと戦争は激化する。そうなれば真っ先に物資不足に陥るのは私たちのような差別を受けている人間だろう。
どんなに色々なことに思いを巡らせてもやはり私の脳裏に浮かんでくるのは彼の顔だった。
彼は今、何をしているのだろうか。
彼が医者を諦めたことなど、今の私には本当にどうでもよかった。ただ彼に生きていてほしかった。今頃家に彼から便りが来ているかもしれない。そう考えるとそわそわしてどうも心が落ち着かない。
「もし・・・。」
私は重い腰を上げ、近くにいた私たちの見張り役のお役人に話しかけた。そのお役人は私に話しかけられ少しめんどうくさそうな顔をした。
「これから私たちはどこに行くのでしょう?」
きっと私と同じ疑問を抱いていたのだろう。幾数人がこちらを見た。私の質問だけだったのならお役人は返事すらしなかっただろう、けれど幾数人の視線の重圧のおかげでお役人は重い口を開いた。
「群馬県だ。」
お役人の言葉が真実なら、私たちはあと数日間電車に揺られることになる。私はお役人に頭を下げると元居た場所に座った。一度立ったにも関わらず、木目のついた床は私の尻の感覚をすぐさま失わせた。落ち込む気分と共に自分の全てこの木目に沈み込んでしまうようだ。
今は昼なのか夜なのかそんなことも分からないぐらい汽車の中は暗い。車輪が線路に擦れて響き渡る金切り声のような音、鼻をもぎ取りたくなるほど血なまぐさい人の匂い、手を高く上げて何かから逃れようとして苦しみ呻く人の声、私の五感を休ませようとはしない刺激たちが、私を鋭利な槍の先でツンツンと突っつく。その刺激は、いっそ一思いに殺してくれ、私にそう思わせるような意地の悪いいやらしさがあった。
少しでも平穏が訪れるよう自分の肩を抱き身を縮める私の肩を、誰かが叩いた。
顔を上げ叩かれた方に顔を向けると、私の肩を叩いたのは私と同じぐらいの年齢の、顔の膨れ上がった女の子だった。どうやら指は曲がり切って指を伸ばす事が出来ないらしい
「これ、使って。」
そう言ってその子は私に白いシーツを渡した。
「何も掛けないよりはいいでしょ?」
口角をあげ目を細めたその子の笑顔はあまりにも固く、一般的な笑顔とは程遠かった。けれど十分すぎるほど私への労りは伝わってくる。
「ありがとう。」
私はシーツを受け取ると自分の肩にかけた。薄い生地だったが、なんだかほんわりと心が温まる気がした。
そんな私の様子を見て少し安堵の表情を浮かべた女の子は私の隣に腰かけた。
「あなたお名前は?」
彼女は少しボリュームの抑えた声で私に聞いた。
「竹田結子です。」
「結子ちゃんね。」
少し照れて恥ずかしそうに笑った女の子はよろしくねと言った。
「私は橋本京子」
「京子ちゃんね」
私はよろしくね、と私が呟くと京子は嬉しそうに微笑みを返した。
「結子ちゃんの事ね、実は前から知っていたんだよ。」
京子のその言葉に私は少し驚いた。私は必死に自分の脳内の記憶を駆けずり回るけれど、私に京子の記憶はなかった。
「と言っても、私が一方的に見かけていただけだけどね。」
「あ、そうなんだ。」
私が必死に思い出そうとしていたことが分かったのか京子はくすくすと笑った。
「どこで私を見かけていたの?」
「いつも同じ時間に結子ちゃんは水を汲んでいたでしょ?そこがちょうど私の部屋から見えるの。」
私はへぇ、と声を漏らした。
声をかけてくれればよかったのに、その言葉は私の喉元で止まった。きっと京子は私よりも差別を受けていたはずだった。そんな彼女が人前で声かけるなんてことできるはずがない。私たちは何よりも人から拒否されることを恐怖としている。
私が言葉を無くし、何を話そうかと考えながら少し宙を仰いでいると京子はふふ、と笑った。
「何がおかしいの?」
私は京子の笑みの理由が分からず聞いた。
「結子ちゃんは気づいてなかったけれど、文太郎は結子ちゃんに声をかける前からいつも結子ちゃんを見ていたんだよ。」
私は文太郎と恋に落ちたあの時を思い出して少し体が熱くなるのを感じた。
「み、見てたの?」
「うん、二人が出会う前から、文太郎が結子ちゃんに見惚れてるのも全部見てた。」
「み、見惚れてた?」
私は京子が何を言っているのか分からなかった。そんな様子を見て京子は少し驚いていた。
「もしかして、文太郎は二人が出会う前のことを何も結子ちゃんに言ってないの?」
私は黙って頷くと京子はハア、とため息をついた。
「馬鹿だなあ、文太郎は。」
親しみを込めて文太郎と呼び捨てにする京子に、私は少しだけジェラシーとも言える嫌悪感を持った。私のそんな心情を京子は察さない。恋する乙女の嫉妬なんてきっと経験したことないのであろう。
「文太郎は結子ちゃんに一目ぼれしたんだよ。」
一目ぼれ、あまりに突拍子もないその単語に私は信じられず京子の顔を凝視した。
「え、そんなに驚く?」
私は強く頷いた。
「結子ちゃん、自分が綺麗で評判だったこと、知らないの?」私は京子の言葉が信じられず首を大きく横に何度も振った。
「どんなに差別されたっていつも凛としてて、私も憧れてた。私はこんな容姿だから少しも外には出れなかったけれど結子ちゃんはしゃんとしていて、白あざだって自分の長所にしてるみたいだった。」
そんな風に見えていたんだ、私は京子のお世辞とも捉えられるぐらい大げさな言葉に心の底から驚いた。