久遠の時空(とき)をかさねて ~Quonฯ Eterno~上
15. 幼き慟哭
今日はどこにも行かず、ゆっくりしようということで、暖野は部屋に戻った。
夜までにはまだ時間があるし、かと言って今寝るとまた眠れなくなりそうだった。毎日、元の世界にいた時よりも十分眠ってはいるのだが、きちんとしたベッドで眠れるのは1週間以上ぶりだ。
柔らかで清潔なベッドは、今すぐ何も考えずに潜り込むよう誘惑してくる。
床には入浴前に脱ぎ散らかしたままの衣服。
ものは試しだ、やってみよう――
暖野はそれらをまとめてずっと寝る時に使っていた布にくるみ、階下の受付横の外側から目立たない場所に置いた。そしてメモ用紙に、“ランドリー・サービスお願いします”と記してその上に載せた。
マルカにもそうするように話したが、その答えは意外なものだった。
「私はいいです。お風呂に入れば、きれいになりますから」
って、服着たままお風呂に入ってるの――!?
まさか、それはないだろう。入浴ついでに洗濯もしているということか、と暖野は思うことにした。
色々と器用な彼のことだ、きっとそうに違いない。
久々のまともな寝床だ。それに食事も。
特にすることもないので、食べたいものについて思いを巡らす。
すき焼き、ハンバーグ、グラタン、茶碗蒸しにうどん、寿司。カルパッチョ、麻婆豆腐、ピザ、グリーンカレー……
脈絡もなく食べ物が浮かんでくる。どれも久しく食べていないものばかりだ。全部一度に出て来ても困るが、どれか一つを選べと言われても難しい。
まあ、いいか――
ここの、お薦めで――
こんなにお洒落な宿なのだから、料理もそれなりのものが出てくるだろうと暖野は思った。
そして夕食。
食堂は、レセプション・ホールに直結した、入口から見て左手にあった。
ピンクと白のチェック柄のテーブルクロスがかかった上には、ちょっとしたフレンチのフルコースが用意されていた。白身魚のムニエル、小ぶりのステーキ、サラダにスープ、主食は白米だった。
ごはん――!
大げさだが、暖野は感激した。移動中ずっとパンばかりだったため、白いご飯は久しぶりだった。
「美味し」
思わず笑みが漏れる。
ご飯のお代わりが欲しいと思って見回すと、給仕用のものらしいカートの上に何故かお櫃が載っていた。この際、フレンチにお櫃という取り合わせについては不問だ。暖野自身も浴衣姿なのだから。
料理の美味しさもあって、ついつい笑ってしまう。
「ノンノ、何が可笑しいのですか?」
マルカが訊く。
「だって、美味しすぎて笑っちゃうのよ」
ふふふ、と暖野は声を立てて笑う。
「そうですね。美味しいものを食べると、幸せな気分になりますからね」
「でしょ?」
他には誰もいないと知りつつ、はしたなくない程度に聞きかじりのテーブルマナーは守る暖野だった。ただ、食べた量は淑女としては、いささか過ぎたかもしれないが、そこは致し方ないだろう。
「食べすぎちゃった」
デザートのケーキまで平らげて、暖野は言う。「で、マルカはビールは飲まないの?」
「もう頂きましたよ」
そうだったのか――!
私の知らない間に、風呂上がりの一杯をやってたのね――
マルカは言っていた。ノンノみたいに、と。
彼がどんな風な飲み方をしていたのか見てみたくもあったし、自分の真似をしていたのなら見ないでよかったのかも知れないと、複雑な気分になる暖野だった。
「じゃあ、もうお風呂も済ませたのね」
試しに訊いてみると、答えはもちろんイエスだった。
変なこと、覚えられても……
澄ました顔でナプキンで口元を拭っているマルカを、暖野は恨めしそうに見るのだった。
レストランから前庭へは直接出ることが出来る。二人はそこで食後のコーヒーを飲むことにした。
ここにはサロンのようなものはないのかと見てみたが、あいにくありそうになかった。近代的とは言えないまでも、雰囲気的に蓄音機や重厚な内装は似合わない。
落ち着いて音楽でも聴きたい気分だったが、叶いそうになかった。人並みの空間で過ごせるだけでも有難いと思うべきなのだろう。
「今日はもう休みましょう」
カップを置いて、暖野は言った。
「そうですね。今から出るには遅いですし」
「お腹いっぱいになったら、眠くなってきちゃった」
「無理もないですよ。ずっと歩き詰めだったんですから」
「ええ。マルカこそ」
カウンター上にある水差しとグラスを持って、二人は部屋へと戻ったのだった。
一人になると、することもなくなる。さりとてマルカといても、今は話すこともない。たまにはマルカにも一人の時間が必要だろう、とも暖野は思った。
眺夕舘という名前だけあって窓からの夕陽は素晴らしかった。
窓辺に寄り、湖に没しゆく夕陽を見つめる。これだけは、毎日見ていても飽きることがない。
風の加減でか、湖面に一筋のラインが見える。窓からも港は見えるが、船の姿はない。
そうしている間にも光源を失った空は暮れなずんでゆく。
暖野は窓を閉め、カーテンを引いた。
ベッドに腰を下ろすと、溜め息が漏れる。
この世界へ来て十日以上になる。少しは慣れてきたが、元の世界が恋しくないわけではない。それと統合科学院のことも気になった。
どの世界も時間的にはリンクしていないはずなのに。自分だけが皆の過ごす時間から外されて、無駄に気を揉んでいる気もする。
この世界へも、通いだったらいいのに――
暖野は思う。眠っている間だけこちらに来るのなら、幾らかは楽だったろうと。
だが、果たしてそうなのか。眠っている間にこの世界へ来て、この世界で眠ると時々魔法学校へ行く。
そう、この世界で眠っても現実世界には戻れない。
それに……
これって、ほとんど寝てないのと同じじゃ――
それはさすがになさそうだった。十分な睡眠を取れていることは、体が一番知っている。むしろ寝過ぎなくらいだ。
今日は、リーウと会えるかな……
そう思いながら、暖野は眠りに落ちていった。
「お母さん……」
暗い。
電気は消えているのか。
私は布団の中で丸まったまま思う。
「お母さん……?」
返事はない。
そうか、お母さんは――
ここは家だった。つい数か月前まで楽しかった、どこにでもある普通の家庭だった。
でも、今は……
お母さんは出て行った。そして、帰って来なかった。
私の知らない所で、お父さんとお母さんは喧嘩していた。いや、知らなかったのではなく、ただ分からなかっただけだった。喧嘩の回数が増えていることも、夜中に怒鳴り声が聞こえていたことも、知ってはいた。それでも毎日ふたりは私に優しくしてくれたし、いつも通りの日々が続くことを疑ってもいなかった。
でも、ある日突然に、お母さんは買い物に行くと言ったまま、帰って来なかった。
その日、家に私以外に誰もいない時間をちょうど見計らって、電話があった。
「ごめんね、暖野。お母さんとお父さんね。別れることにしたの」
いきなりの告白に、受話器を握りしめたまま呆然とした。「いま、お婆ちゃんの所にいる。暖野も修司もこっちへ来られるようにちゃんとするから、それまで我慢して」
電話の向こうで、お母さんは泣いているようだった。
「今まで黙っててごめんね」
作品名:久遠の時空(とき)をかさねて ~Quonฯ Eterno~上 作家名:泉絵師 遙夏