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泉絵師 遙夏
泉絵師 遙夏
novelistID. 42743
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久遠の時空(とき)をかさねて ~Quonฯ Eterno~上

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第2章 思いの向かう先へ 1. 朝の旋律


 宿に戻ると、二人は早速荷物の整理を始めた。
 荷物が多いので、ここは暖野の部屋だ。
「えーと……」
 リストを見ながら、振り分けて行く。「これは、私が持つわ」
 彼女が手にしているのは、裁縫道具だった。決して得意ではないが、一応は家庭科で習っている。
 マルカが大きめのリュック、暖野がランドセルのような背嚢を持つことになった。学生鞄や教科書はまとめてマルカの担当になった。その代わり、今朝入手した魔術本は彼女自身が持つことにした。
 一通り荷物の分担が決まると、二人は食事のために階下へと降りて行った。
 そう言えば、沙里葉へ来てまともな夕食を摂るのは初めてだった。
 何が出てくるのか楽しみだ。
 食堂に入って、暖野は息を呑んだ。
「す……すごい」
 部屋の明かりは全て灯されていた。天井のランプも各テーブルの燭台にも、二人だけの晩餐にはもったいないほどに。
 そして、期待していた夕食はと言うと――
「何、これ……?」
 暖野は騙されたような気分になって言った。「幕ノ内……弁当?」
 そう、そこには内側が朱に塗られた箱に盛り付けられた、仕出し弁当そのままのものが用意されていた。暖野もそれは、法事などで何度も食べたことがある。
 だからって――
 そう言えばさっき、明日から街を離れるのだから、と思ったのだ。何か特別なのを食べたいと。
 まあ、確かに特別ではあるけど――
 暖野は腑に落ちない思いでテーブルに着いた。
 買い物というのは、普通行く店がある程度は決まっていて、目当てのものも定まっている。余分な時間がかかるのは、他にも気に入ったものがあったりして迷ったりしてしまうからなのだ。
 だが、今日の買い物(?)では、店探しからはじめないといけなかった。
 ただ、本当に必要なものを探すというのは、実際にも意外と時間がかかるものなのかもしれない。
 こんなことで参ってたら、この先もたないな――
 少なくとも、沙里葉にいる限りは困ることはない。だが、このままでは埒が明かないのは判り切っている。
 とにかく、街を出る。それしかない、と暖野は決めたのだ。
 急ぐこともないが、今夜は早めに休んだ方がいいだろう。
 風呂上がり、暖野はどうも物足りない気分だった。
 パジャマはなかった。ジャージも買っておくべきだったか、と後悔する。その代わりと言っては何だが、何故か浴衣を持ってきてしまっていた。修学旅行でもあるまいし、寝る時の服装について、それしか思い浮かばなかったこともある。
 暖野は浴衣姿で食堂へ向かう。
 物足りなさの理由、それは牛乳だった。彼女は風呂上がりの冷たい牛乳が大好きなのだ。
 また、テーブルの上になみなみと牛乳が注がれたコップがあったりしてね――
 そんなことを考えながら、ドアを開ける。
 うん、確かにそうだ――
 彼女は思った。
 牛乳のグラスは、なかった。だが……
 前にはなかったはずの冷蔵庫が、厨房への入口脇にある。
 これって定番だけど、ベタでしょ? ベタ過ぎない――?
「あれを、やれって言うのかしら」
 声に出てしまう。
 ガラスの扉のついた冷蔵庫の中には、牛乳だけではなくフルーツ牛乳などもある。この豪華客船の食堂のような雰囲気には、あまりにもそぐわない。意外過ぎて、笑ってしまいそうになる。
 暖野は鍵のかかっていない扉を開けると、牛乳を取り出した。もちろん、瓶である。蓋開け用のピンが紐でぶら下げてあるのも、これはお約束だ。
「ふむ」
 だったら、やってやろうじゃない――
 暖野はそれを、腰に手を当てて一気に飲み干したのだった。
「ふう……」
 思わず息をつく。
 部屋に戻った暖野は、魔術の本を出して眺めた。
 表紙のタイトルからして教科書のようだが、学術書のようにも見える。タイトルは読めるにも関わらず、内容はさっぱり読めない。しかしながら、図表も多用されていて、見ていて飽きないのだった。
 読めたらいいのにな――
 本当に、そう思った。
 図表の多くは、よくある魔法陣などではなく、科学や物理で出てくるグラフのようなものが多いようだったが、文字が読めない彼女がそのことに気づくのはもっと後になってからだった。

 翌朝、暖野は夜明けとほぼ同時に目が覚めた。
 元来朝に弱い彼女としては、珍しいことだった。昨日のように、物音がしたわけでもない。
 カーテンをめくってみると、外はまだ明け方の蒼の名残を残していた。
 薄い霧が流れている。
 荷物は昨夜のうちにまとめてあって、今着ているものを納めればいつでも出発できるようになっていた。
 暖野は思い立って、階下のサロンへと向かった。ここには暇つぶしのTVもない。携帯にストリーム保存してある曲も聴くことができなかった。
 蓄音機の下のレコードを見ていて、その中の一枚に目が留まった。
 ジャケットには、草原をゆく、ゆるくカーブした道が描かれている。
 針を落として、昨日と同じようにソファに深く腰を掛ける。
 優しい旋律が流れてきた。朝なのに、どこか夕暮れ近くを連想させる。
 心地よく、甘く切ない気持ちが沸き上がってくる。
 決して不快ではない。身を委(ゆだ)ねていれば、安らぎへと導かれてゆくようなメロディ。

  あの日なつかしい道の
  なかほどで足を止めて
  ゆれる薄(すすき)穂先を
  そっと見つめる

  ふたり誓い合った時は
  風のゆくえの彼方に
  たとえ馳せるかなわずとも
  忘れはしない……

 え……――?
 ただのピアノの旋律。
 なのに、詞が自然と想起される。
 心地よい、それだけで酔ってしまいそうな空気が醸し出されてくる。
 コーヒー、飲みたいな――
 暖野は音楽をいったん止めた。
 ゆっくりとコーヒーを飲みながら聴き入ってみたい気分だった。
 サロンの隅に、厨房へと通じるドアがあった。その脇に小さなカウンターがあり、コーヒーメーカーが置かれている。
 暖野はコーヒーを淹れると、再びソファに身を沈めた。
 このレコードは、ピアノソロがメインらしい。前に聴いたものもそうだった。
 次の曲が、静かに始まる。

  煌めく朝露が放つ
  虹の向こうへと
  旅立つ者夢見る
  光の先に

  希望携える者に
  必ず幸あれと
  後押す風受けつつ
  未知へと挑む……

 それは、穏やかな旋律だった。だが浮かんできた言葉はそうではなかった。
 まるで、旅立ちを祝福しているような――
 何となく、そうではないような気が、暖野にはした。
 希望を歌っていながら、どこか新天地にしか望みをかけようがないような切実感が伝わってくる。
 伝わってくる――?
 どれも初めて聴く曲で、しかも歌詞などないはずだった。だが――
 暖野は蓄音機の下のレコードを片っ端から見てみた。普通、レコードジャケットにはボーカルや奏者の写真が載っている。だが、どれにも人物は描かれていなかった。
 ここは――
 言葉を失う。
 存在自体がなかったものになる――
 その言葉が思い出された。
 そうか、想いだけは残るのね……