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泉絵師 遙夏
泉絵師 遙夏
novelistID. 42743
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久遠の時空(とき)をかさねて ~Quonฯ Eterno~上

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17. 相違と齟齬


 十時を少し過ぎた頃、暖野は階下へ降りた。
 大体の店は九時か十時開店が普通だろうと踏んだからだ。
 結局、シナリオのことは全く考えられなかった。読みかけの文庫本を読んでいただけだ。こういう時にこそ勉強していれば成績も格段に上がるのだろうが、そんな気はさらさら起きなかった。
 レセプション前にもサロンにも、マルカはいなかった。
 昨夜はあまり眠れなかっただろうし、まだ寝ているのかも知れなかい。
 サロンに入ってソファの一つに腰を下ろす。調度はいずれも古風なものばかりだ。特に壁際の蓄音機――
 蓄音機――!?
 ルクソールでも見たことがあるが、ここに置かれているのはそれよりも大きかった。
 それが置かれている棚には、レコードが収められている。
 暖野はその中から一枚を引き出し、ジャケットを見てみた。そこには、沙里葉ものもであろう街並みが描かれている。人の姿はない。大きめの文字は、盤名なのだろう。
 こちらの音楽がどういうものか興味が沸き、そっとレコードを抜き出して回転台に載せる。使い方はルクソールのものと同じはずだった。
 アームを落とすと、ゆっくりと盤面に降りて行く。スイッチを入れると回転が始まり、いきなり大きな音が拡声器から流れて、暖野は文字通り飛び上がった。
 適当に見当をつけて音量調節する。最初はツマミを間違えて回転数を上げてしまったが、何とか普通に聴けるようになった。
 何だろう――
 ピアノのような音だった。
 哀しくも甘美な旋律が空間を充たす。
 ソファに掛けてそれを聴いていると、異世界にいることなど忘れてしまいそうだった。
 目を閉じていると、調べに込められた想いが眼前に拡がるかのようだ。

  ちいさな恋の思い出は
  君の細く小さな手
  夕陽に溶けてゆく笑顔
  声を聞かせて

  風が通りすぎてゆく
  淡い想いをゆらして……

「ノンノ……」
 声に気づいて、暖野は目を開けた。
 マルカが立っていた。何か信じられないものを見たような表情をしている。
「ノンノ……」
 マルカが言う。「その歌は……」
「え? ああ、これね。そこで見つけたのよ」
 暖野は蓄音機を指して言う。
「いえ、そうではなくて……」
「どうかしたの?」
 マルカが言いにくそうにしているのを、彼女は不審に思った。
「今の歌……」
「歌?」
「いえ、何でもないです」
「この曲、なんだかとっても懐かしいようなメロディね。ついつい聴き入っちゃったわ」
 暖野はレコードジャケットを見せて言った。
「そう……ですか」
「ねえ、大丈夫?」
 心ここにあらずと言った体(てい)のマルカに、彼女は訊いた。
「あ、はい。ただ、ちょっと……ここで音楽が聴けるとは思わなかったものですから」
「そうなの?」
 何だか取って付けたような言い方だったが、暖野は深くは突っ込まないことにした。また変なことを言い出されても困る。今日はこれから忙しくなる。
「さてと」
 暖野はソファから立ち上がる。「今日こそは買い出しを済ませるわよ」
 蓄音機の電源を落とし、レコードを元通りに仕舞う。
 前と同じように、暖野はレセプションにメモを残した。
 装備集めや何やらをしていると、今日はどうせ出発できない。もう一泊して、準備万端で出かけるのがいいに決まっていた。
 とりあえず、昨日道具屋だと確信していた所へ行ってみることにする。途中、本屋に立ち寄って、扉が開くかどうか試してみた。予想通り、それは簡単に開いた。
 中は、古書店独特の匂いが充満していた。この匂いは――
 図書館の書庫の匂いと同じだと、暖野は思った。埃っぽいし、長くいると鼻がむず痒くなってきそうだが、彼女はこの匂いが好きだった。
 どうせ読めはしないだろうと思いつつも、書架の本を眺め渡す。そして、ゆっくりと棚に並んだ背表紙や積み上げられた本を見て行く。
 思った通り、どれも読めそうになかった。
 何気なく奥の机を見やって、彼女の眼は釘付けになった。
 時刻表――?
 近づいてみると、それは紛れもなく時刻表だった。JTB監修と書かれている。
「マルカ、これどう思う?」
 暖野はそれを示して言った。
「どうって――」
 マルカも返答に困っているようだ。
 巻頭の地図を見てみると、彼女の知らない路線が幾つも記載されていた。見知ったものとはいえ、現実のものとは違うのだろうと彼女は思っていたが、実のところは彼女が知らないだけで、廃止前の路線が描かれていただけだったのだが。
 おそらく店主の定位置であろう机の上には、他にも何冊もの本が積み重ねられている。
 その中で、特に興味を惹いたのは――
【現代魔術理論】
 その下には【現代魔術実践】もあった。
 文字はこの世界のものにも関わらず、彼女にはそれが読めてしまった。
 革製の表紙をめくると、目次らしきものがある。だが、それは読めなかった。読めたのは表紙だけ。
 再度表紙を見ると、それはもう読めなくなっていた。
 読める時とそうでない時の違いって何なのだろう、と暖野は思った。
 そう言えば、マルカも昨日、笛奈の駅の表示が後になって解ったとか言ってなかったか――
 意味がないとは分かっていても、暖野はその本が欲しくなった。
 訳もなく惹かれる本は、買っても絶対損はしない。そのような本は、まさしくそのときに読むべき本で、また最高に読みたかったものなのだ。その逆に、体調の悪い時などに適当に買ったものは、とても残念なものだったりする。
「ねえ」
 暖野はマルカに言う。ちょっとおねだりをする子供のような表情になっていた。「これ、買ってもいいかな」
「それは構わないですが……。読めるんですか?」
 暖野は首を振った。
「でもね、持ってるだけで、お守りになりそうな気がするの」
「そうですか。じゃあ、いいんじゃないですか。本は、読む人を選ぶと言いますから」
 お許しは出たものの、買うって――
 代金をどうするのか。宿もタダだったし、ここでもそれでいいのか。
 やはり、無断で持ち出すのは気が引ける。ここが自分の世界なら、全部自分のものだから好きなようにしてもいいとも解釈できるが、そんなに簡単に割り切れるものでもない。
 かと言って、財布の中には小銭しかない。
 一見して高そうな本だった。しかも二冊もである。
 暖野は、宿でしたのと同じように、書き置きを残すことにした。ここにはメモ用紙はなかったため、ノートに文面をしたためて、そのページを破り取り机の上に置いた。もちろん、署名もして。
 入手したはいいが、ここでは紙袋も何もない。本はマルカが持ってくれたが、普通のリュックみたいな大袋以外にもトートバッグか何かがあればいいのに、と彼女は思った。
 余計なものばかり買うわけにもいかないので、二人は道具屋とおぼしき店へと急いだ。
 路地の奥、井戸のある広場に着く。
 昨日見当をつけていた店の他にもう一軒、目に入るものがあった。
【道具屋】
 確かに、そう書かれている。しかも大書きで、漢字で道具屋と書いてある。
 だが、それは――
「あれ、道具屋よね」
 暖野が確認する。
「そうですね」
 マルカが応える。
 それは、確かに道具屋ではあった。だが――