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泉絵師 遙夏
泉絵師 遙夏
novelistID. 42743
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久遠の時空(とき)をかさねて ~Quonฯ Eterno~上

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16. 朝雲晴れて


 暖野は物音で目を覚ました。
 外が、どうも騒がしい。
 ベッドなどという上等なものはないので、ベンチにそのまま寝るしかなかった。上着を肩から掛けていたが、木のベンチは固くて冷たかった。脚の方には、マルカの黒い上着が掛かっていた。
 起き上がろうとすると、肩や腰が少し痛んだ。
 音は、裏手の方から聞こえた気がした。
 裏手――ホームの方だ。
 まだ外は暗く、夜明け前のようだった。結構冷え込んでいるらしく、窓ガラスが曇っている。
 彼女はゆっくりと立ち上がり、靴を履いてホーム側に向かった。
 扉を開けると、冷気と共に濃い霧が流れ込んできて、思わず身を竦める。
 すぐ近くのものが霞むほどの霧の中に、電車が停まっている。さっきの物音は、電車の音だったのだ。
「マルカ! 見て――」
 振り向いて報せようとしたが、マルカの姿はどこにもなかった。
「え……。マルカ?」
 待合室に隠れられる場所などない。
「マルカ!」
 暖野は広場の方に駆け出た。
 広場は蒼く霞み、霧がたゆたっている。
 彼は、火の傍で眠りこけていた。
 暖野は、たまらなく申し訳ない気分になった。
 彼は自分が寒いのにも構わず、暖野に上着を与え、一晩中火の番をしていたのだ。この纏わりつくような冷気の中で背中を丸めて炎を見つめていたであろうその姿に、涙が出そうになった。
 火は、ほとんど消えかかっていた。
 その寝顔は、まるで子供のようだった。見かけよりは歳を取っていると彼は言っていたが、眠っているところを見る限りでは、とても大人には見えなかった。
 暖野はこんな風に眠る彼を、どこかで見たことがあるような気がした。
 そんなはずはなかった。彼と行動を始めて二晩、最初の夜は別々の部屋で眠ったのだから。
 きっと、気のせい――
 暖野は駅舎内から彼の上着を取って来ると、昨夜彼がしてくれたであろうように、そっと上着を掛けてやった。
「あ……」
 マルカが目をこすりながら顔を上げる。「おはようございます」
「……」
 暖野は何も言うことが出来ず、彼の顔を見つめた。
「どうかしましたか、ノンノ? 私の顔に、何かついてますか?」
 あどけない彼の表情に、暖野は首を横に振る。
「よく眠れましたか?」
「ええ……。あの……」
 暖野は口ごもった。
 マルカが無邪気に見つめ返してくる。
「何です?」
「あ……、ありがとう」
 たったそれだけを言うのに、これほどまでに苦労するとは彼女は思わなかった。
 素直じゃないのかしら、私――
 マルカが立ち上がる。
「もう、朝ですね」
 彼は言った。
 いつの間にか、辺りは明るみ始めていた。
 霧が明け方の光を蒼く包んでいる。
「あのね」
 暖野は思い出して言った。「電車が来たの」
「本当ですか!」
 マルカの顔が輝く。
 二人でホームまで出て、そこにまだ電車が停まっているのを確認する。
「これで、沙里葉まで戻れるわね」
「ええ。大丈夫そうですね」
 マルカが火の始末をしている間に、暖野は荷物をまとめた。せいぜい充電していた携帯電話を鞄に仕舞うくらいだったが、一応忘れ物がないか確認した。
 二人が電車に乗り込んだ時には、夜はすっかり明けていた。霧は晴れないままで、白い大気の中を電車は動き出したのだった。
 霧の中を電車は進んでゆく。窓からの景色は、まるで水墨画のようだ。
 これは戻りの電車のはずだった。何しろ途中に町らしきものは一つもなかったのだから。
 この電車は、沙里葉とあの森の中の町――であった場所を結ぶだけの路線のようだ。
 マルカの話ではそう大きな町ではないようだったし、これでは採算も何もあったものではなかったろう、と要らぬ心配をしてしまう暖野だった。
 車内は暖房が利いているのか、暖かい。見たところ暖房装置などなさそうだったが、有難いことだった。
 来た時とは違って坂を下るだけだからなのだろう、比較的静かだった。カーブで軋み音を響かせるくらいで、後は電車独特のリズムだけが鼓膜を打つだけだった。
 外は徐々に霧が晴れて来ているようだ。
 見える樹々の輪郭もはっきりしてきた。
 そして――
「うわぁ!」
 思わず感嘆が漏れる。
 それまで暖野は霧だと思っていたが、実は雲の中にいたのだ。
 電車が高度を下げるにつれて、雲は頭上に去ってゆく。そして、眼下には朝陽に輝く湖があった。
「朝って、こんなに綺麗なのね……」
 目を輝かせて、彼女は言う。
「そうですね、本当に……」
 マルカもこんな光景は初めて見るのだろう、嘆息混じりに言った。
 これを見られただけでも、駅で夜明かしした価値は十分にあったと、暖野には思えた。
 平地に出ると、もう変化は何もない。後は道沿いに街へ戻るだけだ。朝の新鮮さは次第に薄れ、見えるものは平凡な日の光の中へと微睡(まどろ)んでゆく。
 どうせ街までは停まらないだろう。揺れ続ける電車の中で、二人は肩を寄せ合って共に眠りに落ちて行った。

 暖野は眩しさに目を開けた。
 電車は停まっている。窓から差し込む陽が直接顔に当たり、目を瞬(しばたた)いた。
 肩が重い。
 見ると、マルカが彼女に完全に身をもたせて寝ていた。
 寒空の下で一晩を明かしたのだから、さすがによくは眠れなかったのだろうと――
「ちょ……」
 暖野は身じろぎする。
 でも、これは拙(まず)いだろう――
「マルカ。起きてよ」
 彼の肩を抑えながら向き直って、暖野は言った。
「え……? ああ、すみません。すっかり眠ってしまったようで……」
 まだあくびをしながら、マルカが身を起こす。
「着いたみたいよ」
 暖野は言った。
 窓の外には、石造りの建物の連なりが見えている。沙里葉に違いなかった。
 降りてみると、そこはあの宿屋の正面だった。
 二人が地面に降りると、電車は動き出した。
 いつ着いたのかは分からないが、二人が降りるまで動かないとは、もしこの街に他の人たちがいたのなら迷惑極まりない話だ。
 暖野は宿屋の前に立つと、恐る恐る扉に手をかけた。動かなかったらどうしようと思ったのだ。
 だが、そんな心配は無用だった。扉はまるでそれが当然であるかのように、難なく開いた。
 普通なら、こんなことで驚く必要などないのだが、この世界では普通というのが通用しない。いちいち疑ってかかるのは良くないとは思うものの、ついつい力んでしまうのは仕方がない。
 前には気づかなかったが、レセプションの左手のスペースに大きな振り子時計があった。時間はまだ8時前を指している。例の懐中時計を出して見てみると、ほぼ同時刻だった。
 なるほどね――
 これが、この世界での標準時なのだと、暖野は思った。
 少し気後れしながらカウンターの上を見てみると、昨日残しておいたメモがなくなっているのに気づいた。誰もいないはずなのに、誰かが確認したかのようだ。
 少々腑に落ちない思いはあるものの、暖野は新しいメモ用紙を取ると簡単な謝罪の文面をしたためた。
――昨日の夜はわけあって戻れませんでした。ごめんなさい――
 前と同じ部屋に入ると、最初に来た時と同じように整えられていた。シーツはピンと張られ、枕やクッションもきれいに並べられている。