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泉絵師 遙夏
泉絵師 遙夏
novelistID. 42743
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久遠の時空(とき)をかさねて ~Quonฯ Eterno~上

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9. 小さな感謝


 大方の荷物は置いて行くつもりだったが、とりあえず全部持って出てしまった。
 レセプションの前で、マルカと落ち合う。
「いいですか?」
 マルカが訊くのに、暖野は頷いて応えた。
「じゃあ、出発といきますか!」
 景気づけとばかりにマルカが威勢よく声を上げて歩き出す。
「ちょ……ちょっと待ってよ」
 玄関のドアを開けようとするマルカを、暖野は呼び止めた。
「何か、忘れ物でも?」
「そうじゃないけど、お金、払わなくてもいいの?」
 そう、二人はまだ宿賃を支払っていない。チェックアウトもまだだ。とは言え、チェックインすらしていないのだったが。
「誰に払うんです?」
「誰にって……」
 暖野は口ごもる。
「ここにはもう、誰もいないのですよ。払う相手もいないのに、どうしてその必要があるんですか?」
「ええ……まあ。それはそうだけど……」
 彼の言うことは正論ではある。だが清潔な部屋に泊めてもらって、その上食事までしておきながらタダで出るというのは、どうも後ろめたい。それに――
 朝食は、誰が用意してくれたのか。
 あのとき暖野は、ここにはやはり誰かいるのだと思った。スープは熱々だったし、パンも乾いてはいなかった。どれも直前に供されたばかりのようだったからだ。勝手に食事が出てくるとは考えにくい。
「朝ごはんは、マルカが作ってくれたの?」
 暖野は訊いてみた。
「まさか!」
 彼は大仰に否定した。
「じゃあ、あれは誰が――?」
「ノンノですよ」
 その言葉に、暖野は馬鹿みたいに口を開けて彼を見返した。
「だから、ここはノンノの世界なんですよ」
 暖野の様子を見て、マルカが言う。
「それじゃ、答えになってないわ」
「あなたが望んだから、そうなったのでしょう」
「じゃあ、こういうわけ? 私が欲しいと思ったものは、何でも勝手に出てくるって」
「何でもかどうかは分かりませんよ。でも、ここはノンノの意思を確実に反映しているはずなんです。どの程度かははっきりしませんし、私では試してみることもできませんが」
 確かに、あの朝食は暖野が思い描いていた通りのものだった。望んだというよりは妄想に近かったかも知れないが。
 暖野は試しに目の前のドアに向かって念じてみる。
 念じたと言っても特別に何かが欲しかった訳ではないし、どうなって欲しいという具体的な思いがあった訳でもなかった。だから、頭に浮かんだことは、ごくごく平凡な、平凡すぎて却って誰もが思わないようなことだった。
 暖野は『開け、ゴマ』と念じたのだった。
 だが、何も起こらなかった。ドアは依然として閉じたままだった。
「開かないじゃない」
 不服そうに暖野が言う。
「え?」
 マルカが、意味を計りかねて暖野を見る。
「このドアに“開け”って念じたのに、びくともしないのよ」
 暖野は説明した。
「そんなこと、私に言われても……。念じ方が足りなかったのでは?」
 困ったように彼が言う。
「そう……?」
 暖野はもう一度、今度は普通にドアが開くように念じた。それでもやはり、ドアは動きもしない。
「どういうことなのかしら?」
 不思議そうに首を傾げる暖野をよそに、マルカ自らドアを開けた。最初からそうしている方が、よほど早かった。
「さあ、どうぞ」
 マルカが言う。「いつまでも、そんな所にいたって仕方ありませんよ」
 その通りだった。
 だが、暖野はなおも躊躇した。
「そうですね――」
 彼女の気持ちを察して、マルカが言う。「どうしてもと言うのでしたら、何か気持ちを置いて行けばいいのではないでしょうか」
 気持ち、ねえ――
 暖野は考えた。そして、カウンターに歩み寄る。
 鞄からペンを出して、卓上のメモ用紙にしたためた。
――ありがとうございました。ごはん、おいしかったです――
 それから少し考えて、書き加える。今夜もお世話になります、と。
 彼女がカウンターに向かっている間、マルカはずっと暖野を見つめていた。その瞳は限りなく優しさに満ち、かつ深い哀しみの色を宿していた。
 そんなことなど与り知らぬ暖野は、署名したそれをペン立ての下に挟んで玄関の方へ向き直った。
 マルカはドアを支えたまま、彼女を待っている。
 暖野はそのドアをくぐって、表通りに出た。
 朝の光の中で見る沙里葉は、どこまでも透き通っていた。おかしな表現だが、暖野はまさにそう感じた。ここには、空気を汚す何ものもないからなのだろう。
 自分の住む街も空気さえ清浄ならば、きっとこんな風に澄明なのだろうと思った。夕刻の街も幻想的だったが、朝の光景もまた美しかった。
 そして、美しいだけに、誰一人いないことが不気味でもあった。それは、この風景を見る誰もが、ここがゴーストタウンであることを嫌が応にも認めざるを得ないがためだった。
「まず――」
 暖野の思いに気づいていないかのような口調で、マルカが言う。「どちらへ行くことにしますか?」
「そ、そうね――」
 我に返って暖野は言った。
 右手遠くには、駅が見えている。左手は、前にアゲハの邸のあった丘の麓へと続いているはずだった。
「ねえ、マルカ」
 しばらく考えた後、暖野は言った。「今日は、ここを見て回ろうと思うの」
「そうですね」
 マルカが応える。「それも、ひとつの方法です」
 彼は意外にもあっさりと、暖野の考えを受け入れてくれた。すぐにでも旅立ちを促されものと思い込んでいた暖野は、幾分拍子抜けした。
 冒険物語には始まりの町があって、何かハプニングがあったり、そこで情報収集したりするのが王道というものだろう。旅の装備もそこで揃えるのが常套のはず。
 しかし、ここには情報を得るための住人もいないしギルドもない。店も開いていない上に、人も動物もいないのでは、ハプニングなど起こりそうもなかった。
 正直なところ、暖野は少しばかり開き直っていた。
 面倒な現実から離れて、少しのんびりしてみるのもいい、と。
「ねえ」
 暖野は訊いた。「地図、持ってる?」
「地図、ですか?」
「そう。まさか、地図も知らないなんて言わないでしょうね」
「もちろん知っていますよ。でも、私は持っていません」
「地図なしじゃ、どこへ行くかも決められないじゃない。それに、私たちの居場所がどこかも分からないんじゃ、困るわ」
「たいして困りはしないでしょう。それに、地図なんて持ってるだけ無意味だと思います」
「どうして無意味なのよ。ひょっとして、コンパスもないとか――」
「その通りです。察しがいいですね」
「からかってるの?」
「とんでもない」
 マルカが真面目な顔で見返す。
 彼はとりあえずは信用できるはずだと、暖野は思っている。しかし時おり、人を弄んでいるかのようなことを平気で言ったりする。根は正直なのだろうが、少々無神経と言うか、人と話すのが上手でないようか感じを受けた。
 どうせ役には立たないだろうと思いながら、暖野は携帯電話を出してみる。電池容量がぎりぎりだが、電源を入れてみた。
 不思議なことに、圏外ではない。地図アプリで位置情報を確認すると、学校帰りに乗っていたバスの位置のままだった。
 当然ながら、沙里葉の地図情報などあるわけもない。
「何ですか、それ?」
 マルカが訊いてくる。