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泉絵師 遙夏
泉絵師 遙夏
novelistID. 42743
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久遠の時空(とき)をかさねて ~Quonฯ Eterno~上

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5. 鍵


 月曜日、体の方はすっかり回復して、暖野は学校へと向かった。
 しかし必ずしも快調とはいかなかった。
 頭が重かった。何かを忘れているという感じが、常につきまとっている。結局、シナリオを考えるどころではなかった。
「また、宏美に怒られそうね」
 バスを降りて、学校への坂道を上りながら暖野は思った。
 と、そこへ――
「おはよう!」
 佐伯夏美が、背後から声をかけてきた。
「あ、おはよう」
「もう、大丈夫なの?」
 夏美が訊く。
「うん。一昨日はありがとう」
「え? ああ、いいのよ、そんなこと。――で、何か考えてきた?」
「まだ。何から手をつけたらいいのか分からなくて」
 暖野は言った。それは、正直な言葉だった。
 ただ、シナリオのことだけを言っているのではないことを除けば。
「私も。いきなり言われても、出来るもんじゃないわよねえ」
「うん」
「今日も残らないといけないのかしらね」
 夏美が鞄を大きく振って言った。
 教室に入った二人は、そこで実行委員の残りの3人と合流した。
「えー!? じゃあ、みんな……」
 揃って顔を見合わせる。やはりと言うか、誰も考えてこなかったのだ。
「だから、レ・ミゼラブルしかないのよ」
「いやいやいや! 絶対に嫌!!」
 松丘千鶴の言葉に、夏美が全力を込めて首を横に振る。どうやらあのお話は、すこぶる不評のようだ。
「反対なら、何か案を出してから言ってよね」
 至極冷静に松丘千鶴が言ったところで始業時間となり、実りのない会議は中断されたのだった。
 暖野は胸をなでおろした。
 悩みの種は、あのことだけで充分だわ――
 休み時間の度に5人は集まって、ああでもないこうでもないと議論し続けた。議論と言えば聞こえはいいが、どうでもいいようなやりとりを繰り返してばかりいるというのが実情だった。
 持ち時間以内でできるもの。それも問題だった。その制約のおかげで、松丘千鶴の案は取り下げられたのだが、それによってまた白紙から始めなければならなくなった。
「厳しいね」
 宏美が言った。演目の時間制限のことである。
 二人は正門を出た所だった。
 5時を過ぎていた。辺りはすっかりたそがれてしまっている。
「それでも、結構長い方なんじゃない?」
「そうねえ」
 宏美はちょっと考える目になる。「動作や場面転換とか考えだしたら、きりがないね」
「言うは易しってことね」
 昔の作品をやるとなると、どれも難しすぎるか易しすぎるかだった。図書館や本屋には振付も書かれシナリオ本があるし、かつての生徒たちが残していった劇のシナリオも図書室に保存されている。
 それを暖野が言うと、同じのをやりたくないと反対されたのだった。
「べつに、劇でなくてもいいのよね」
 暖野は少しばかり遠くを見ながら言う。
「どういうこと?」と、宏美。
「ビデオって方法もあるってことよ」
「ああ。去年、3年生がやってたやつね。あれ、面白かったよね」
 宏美が思い出して言った。
「ビデオだと教室で上映したらいいんだし、時間制限もないから」
「うーん……」
 宏美が難しい顔をする。「でもね。噂によると、機材貸してもらえないらしいよ」
「え? なんで?」
「その3年生が、カメラとマイク壊しちゃったんだって。それで視聴覚室の先生が怒って、二度と生徒には貸さないって頑張ってるらしいのよ」
「そうなんだ。でも、どうしてそんなこと知ってるの?」
「F組がビデオやろうと思ってるの。郁子、知ってるでしょ?」
 早坂郁子は、二人が一年生の時のクラスメイトだった。
「なんだ。もう他のところがやってるの。それじゃ機材も取り合いになるだろうし、無理っぽいね」
 暖野は言った。
「貸してもらえたらね」
 宏美の表情では、ビデオは全く期待すらできないようだった。
「そうか。ビデオも駄目かぁ……」
 何でもダメダメでは埒が明かない。そこで、ふと思いついて暖野が言った。「8ミリって、どう?」
「8ミリ? そんなの持ってる人いるの?」
「実はね、お父さんが最近趣味で買ったんだ」
「ふうん。それは面白いかもしれないね」
「いずれにせよ、シナリオはいるわよ」
 暖野は指摘した。
「そうなのよね。それが今のところ一番の問題なのよね」
「あ、来た。グッドタイミングね」
 暖野が言った。「今日は乗り遅れなくて済んだわ」
 二人はバス停の手前まで来ていた。
「今日も、また一人?」
 宏美が拗ねたような顔をする。
「この前は酷い目に遭ったわ」
「そんな言い方ないじゃない」
 バスが停まる。
「じゃあね。お先」
「薄情者」
 前回の暖野の台詞を、今度は宏美が返した。
 暖野は軽く手を振って、座席に着いた。
 ため息が漏れる。
 学校にいる間中、落ち着いている暇はなかった。トイレに行っても劇の話ばかりだったのだから。
 乗客は、今日も彼女一人きりだった。
 そういえば――
 暖野は時計のことをすっかり忘れていた。
 ポケットから取り出し、蓋を開けてみる。それはまだ、時を刻んでいた。ただし、6時間31分進んだままで。
『とんでもないわね。よく今まで放っておいたもんだわ』
 暖野は小さなつまみを回して、正確な時間に合わせた。また部屋で昏倒しなくても済むように。
「これでよし」
 暖野は満足げに頷く。そして次の瞬間、凍りついてしまった。
「うそでしょ?」
 窓の外に目をやった暖野は、自分がまた夢を見ているのだと思った。
 バスは荒野を走っていた。いつも見ている刈り入れの終わった田園風景ではなく、正真正銘の荒野だった。
 沙里葉――
 その言葉が頭に浮かぶ。
 何の心づもりもなく、また来てしまった。
 ――刻(とき)を合わせよ――
 その言葉が思い出される。
『ああ、合わせるんじゃなかった』
 この時計の時間を合わせることが、鍵だったのだ。
 バスはやがて唐突に、いつか見た駅前広場で停まった。
 ドアが開く。
 暖野は抵抗するように席を立たなかった。どれだけじっとしていただろう、バスはどうやら動きそうになかった。暖野は決心がつくまで、そのままでいた。
 降りようか降りるまいか。降りなければ、バスは永遠に停まったままかも知れなかった。かと言って降りてしまえば、今度はいつ帰れるか分かったものではない。
 いつまでも座っていても仕方がなかった。暖野は席を立つと、前に向かって歩き出す。
 運転席には、以前と同じく誰もいない。
 降り口で、またしばらく逡巡する。
 もう一度座席に戻って、眠ってみたらどうかと考える。だが、それで問題が解決するとは思えなかった。
 暖野は降車口の最後のステップに足をかけた。
 外の光景は、前に来た時と同じく黄昏の色に染まっている。
 あと一歩で外だった。
 日常世界と別世界との境界。バスと石畳の舗道。
 一歩を踏み出す。たったそれだけのことに、随分と気持ちを奮い立たせなければならなかった。
 両足が地面に着くと、思わず深い吐息が漏れる。
 背後で、ドアが閉まる。予期はしていても、その音に驚いてしまう。
 目の前でバスは動き出した。前回同様、街路の果てに見えなくなるまで、暖野はバスを見送った。
 来てしまった……。
 暖野はまた、溜め息をついた。