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　暖野は言った。「ここの湖がどれだけ大きいのかは知らないけど、少なくとももっと大きい湖みたいな――ううん、この世界そのものを囲うほどの水の広がりがあるのよ、きっと。私の世界では、世界のほとんどは海で、陸地は全部それに囲まれているのよ」
「世界を囲むほどの湖ですか……」
　マルカが遠い目をする。
　日中の光景を知らない暖野は、月の湖が昼間にどう見えるかは知るよしもなかった。だが、マルカが海を知らないということだけは分かる。
　これまで専ら訊く方だった暖野は、問いに的確に応えることが如何に難しいかを覚ったのだった。
「まあ、水の中に葉っぱが浮いてるって感じかな……」
　あまりに真剣な表情のマルカに、暖野はわざとおどけてみせた。
「どこの世界も、そんなに安定していないということなんですね……」
　暖野の思いとは裏腹に、マルカが却って沈んだ表情になる。
「そ、そんなつもりじゃ……」
「ですが――」
　暖野は慌てて取り繕う。
「喩えよ、喩え。本当は浮かんでるんじゃなくって、海の底で全部繋がってるんだから」
　それは嘘ではなかったが、先の言葉も嘘とは言い難かった。陸地は静止しているのではなく、地殻は絶えず異動しているのだから。
　だが今は、そんなことを説明することに意味などなかった。
「あの橋は？」
　とにかく話題を変えようと、視線の先に見えるものについてマルカに訊ねた。
　河は左へ曲がりきると、今度は右へとカーブしている。半径がかなり大きいため急な曲り方ではないが、その分距離がある。
　遊歩道はカーブの途中で終わっているようで、その先には灯りがほとんどない。
　暗いために距離感が掴めないが、緩く蛇行する水面の彼方に長大な橋が架かっていた。
「ああ、あの橋ですか」
　マルカは暖野の視線の先を見やって言った。「あれは鉄道橋ですよ」
　二人はその橋よりかなり手前にある船着き場に辿り着いた。
　先ほどと違ってすぐにそれと気づいたのは、入口のゲートと河へと延びる桟橋があったからだ。
「あの橋は人も通れるんですが車は通れません。だから車はここから渡し船で向こう岸へ渡ったそうです」
　そうか、ここには電車だけではなく車もあったんだ――
　暖野は思った。マルカの言う車が果たして暖野の思っているようなものであるかどうかは分からなかったが。
　彼の言葉を裏付けるように、対岸にも小さな灯りが見える。きっとあそこまで行っていたのだろう。
「どうします？　もう少しここを歩きますか？」
　マルカが訊く。
「あなたに任せるわ。どうせ私には分からないもの」
「じゃあ、上がりましょう」
　二人は街へ上がる広いスロープ脇の階段を上がった。
　誰もいないのだから堂々と道の真ん中を歩いても良さそうなものだが、二人はこれまでずっと歩道のあるところではそこを選んできた。
　石造りの街並みが、そこに相変わらずあった。ただ、これまで見てきた他の地域とは雰囲気が異なっている。
　そこもやはり広場ではあった。だが、建物の前にはパラソルが立てられ、下には円形のテーブルがあり、周りに椅子が並べられていた。
　小ぶりながらもきちんとした屋根のある駅には路面電車が停まっているのが見える。ここで暖野は初めて電車を見た。二重屋根（ダブルルーフ）にポール、大きな緩衝器（バッファ）をもつ電車は、それを初めて見る暖野にさえ奇妙な懐かしさを感じさせた。
　全てが暖野の知っている世界とはかけ離れたノスタルジックに過ぎるものではあったが、それは却ってよかったのかもしれない。普通にコンビニやLRTのある街並みだったら、孤独感はもっと際立っていただろう。
　マルカも古い映画に出てくる紳士のような服装をしている。
　彼の存在が不安感を減衰させてくれていることは確かだったが、この街の光景の物珍しさが気を紛らわせてくれているのも事実だった。
　さっきマルカが言ったように、ここは港湾地帯なのだった。道幅は広く、河沿いにクレーンが幾つもあり、多くの木箱が積み上げられたまま放置されている。
　道を取り巻く色とりどりのパラソル、それらは船を待つ人達のためのカフェだったのだろう。
　多くの思いがこの場所を行き交ったのに違いなかった。店先の看板や整然と並べられたプランターもかつての賑わいを伝えている。しかしそのどれもが今となっては寂寥感を、それを見る者に掻き立てるだけだった。
　街路燈が無人の広場を照らす中、二人はパラソルの間を縫うように歩いた。程なく元の何の変哲もない街並みになる。そのまま数百メートルほど進み大きなロータリーのある交差点を過ぎると、噴水のある広場が見えた。
「もうすぐ、駅ですよ」
　マルカが言う。
「本当に、帰れるのね？」
　暖野はマルカに確認した。
「ノンノが、本当に帰りたいのなら」
「ねえ、どうして全部私に振るのよ」
「だって、私はノンノの選択権を必要以上に侵すことはできないからです」
「……」
　二人は駅前広場に出た。
「うそ……」
　暖野は自分の目を疑わずにはいられなかった。
　ここへ来て自身の目を疑うのは何度目だろう。
　そこには、バスが停まっていた。
　見慣れた、いつもの循環バス。
　バスは、暖野が最初に降りたその場所に停まっていた。
　この全てにおいて古めかしい光景に、近代的なそれはいかにも場違いに見えた。側面の歯科医院の公告もいつも以上によそよそしく思える。
　帰れるんだ――
　暖野は思った。初めは疑心暗鬼だったものが、次第に現実味を帯びて彼女に実感させた。
「いいの？」
　はやる気持ちを抑えて、暖野はマルカに向き直る。
　マルカが頷く。
「待っていますよ」
「……」
　暖野は再び、マルカの目を見つめた。「どうしても？」
　マルカが再度頷く。
「でも――」
「大丈夫です」
　暖野の言葉を遮ってマルカが手を差し出す。暖野がその手を握ると、マルカは力強く握り返してきた。
「さあ」
　手を放すと、マルカは暖野を促した。
　いつまでもぐずぐずしている暖野の肩を、彼は優しく押しやる。
　それでようやく暖野はバスに向かって歩き出した。
　今になって名残惜しくなるなんてね――
　暖野は苦笑した。
　だが正確に言うと、暖野は心配だったのだ。腹立たしくもあったが、ほんの少しの間でも自分を案内してくれたマルカの身が。もし彼がいなかったならば、自分がどうなっていたかさえ分からないのだ。
　この消えゆく世界に彼一人を残して去るのは、やはり気の重いことだった。
　後ろ髪を引かれる思いで乗車口のステップに足をかける。それと同時にバスのエンジンがかかった。
　ステップを昇りきるのを見計らったようにブザーが鳴って扉が閉まる。
　暖野は振り向いて、胸の前で小さく手を振った。途端にバスが大きく揺れて動き出し、危うく暖野は倒れそうになる。
　マルカは広場に立ち、いつまでも暖野の方を見つめていた。
　暖野はそれが小さくなって見えなくなるまで通路に立っていた。
　座席に身を落ち着けると急速に眠気が襲ってくる。しばらく彼女は見るともなしに外を眺めていたが、やがて眠りに落ちていった。
　彼女の座ったのは、奇しくもここへ来るときに座っていたのと同じ場所だった。