久遠の時空(とき)をかさねて ~Quonฯ Eterno~上
10. 沙里葉
広場に出て、暖野はようやく息をついた。
暗い森の中を歩いてきたために、街の灯りはとても明るく感じられた。
彼女の暮らす街とは比較にならないほど明るさは足りないが、それでも街の灯は頼もしい。
「街を見て回ることは諦めましょう」
マルカが、例の石像の前で言う。「でも、少しばかり遠回りすることは許してください。同じ道を二度通るのは、ノンノも嫌でしょう」
マルカはどうしても街を見せたいらしい。
このまま真っ直ぐ駅へと向かいたかったが、暖野はそれに同意した。早く帰りたいのは山々だが、急いだからといってすぐに帰れる保証は何もない。森を抜けたら学校裏だったりとか、広場にバスが待っているなどという都合のいい状況にはならなかった以上、ここは彼に従った方がいいのかも知れなかった。
マルカは森を右に見る道を選んだ。駅の方を向いて右側の道だ。
これも路面電車の線路が続く石畳の道だった。家々には灯火はなく、街路燈だけが道を照らしている。
道の右側にも、少し行くと建物が続くようになった。建物は相変わらず古風なままだ。オレンジ色の灯りとはいえ、高速道路や国道の街灯とは雰囲気が全く違う。どこか古いモノクロ映画に出てくるヨーロッパを想起させる。
ガス灯というのは、こんな感じのものなのかな……
そう思ってはみても、電車の線路があるのだから電気はあるのだろう。
「本当に、誰もいないのね」
暖野は呟いた。
まるで深夜のようだった。誰もが寝静まった街。
しかしここは違った。住む人のいなくなった街。犬の声さえ聞こえない、道を横切る猫さえいない、生命の息吹が失われた街なのだ。
やがて家並みは途切れ、二人は広い空間に出る。周りには木が植えられていて、ちょっとした公園のようになっていた。道はそこから左へと曲がり、並木道となって続いていた。
マルカは広場を突っ切り、その先へと歩いて行く。
「沙里葉河です」
マルカが先を指し示して言う。
彼の横に並んで立つと、黒々とした水面が眼下に見えた。ここは、河を見下ろす公園だったのだ。
暖野は岸辺に寄り、手すりに手を掛けた。柵には凝ったデザインの細工が施されていた。夜の冷たい感触が、金属を通して伝わってくる。
対岸には灯りは見えなかった。
川面は波ひとつなく、静かだった。
「沙里葉河は、この先で月の湖に注ぎます」
マルカが説明する。
「月の湖?」
「さっき、博士の邸から見えたでしょう」
「ああ。あの湖は、そんな名前だったの」
邸を去る前に見た月の出を思い出した。
ここで見る最後で、最初の月。偶然なのかどうか、あまりに直截的な名前だと暖野は思った。
暖野は河の流れゆくであろう先に目を向けたが、湖は漆黒の森に遮られて、ここからでは見えなかった。
「行きますか」
暖野が顔を向けると、マルカは言った。
暖野は頷く。
二人は川沿いに設けられた階段を下りた。
そこも小さな公園になっており、遊歩道が延びている。街路燈の光が川面に照り返されて、なんともロマンティックな雰囲気を醸し出している。
こういう所を恋人と一緒に歩けたら、と暖野はふと思った。
それは決して叶わぬことだとは彼女も解っている。ここは現実の世界ではないのだし、それより何より未だ男友達もいないのだから。
今は道幅もあるせいで二人は並んで歩いてはいたが、互いに顔を見るでもなく手をつなぐでもなく、当然ながら必要なだけ離れていた。
それにしても、暖野は不思議にもマルカに対して全く警戒心を抱かなかった。だからといって、それ以上の感情も持たなかったが。
遊歩道は河に沿ってどこまでも続いているかに見えた。河はわずかに左へカーブしており、先が見えないせいもあった。
「ここから、どこへ行くの?」
暖野は訊いた。
「どこだと思いますか」
普通このような言い方をされると、ふざけているのではないかと思うところだが、マルカの存在と口調に慣れてきたのか、もうそんな気持ちにはならなかった。
「知るわけないでしょ」
暖野は答えた。
「ノンノが帰れる可能性が最もある場所――」
「駅?」
それしか思い浮かばない。
ここから直接帰れてもいいようなものだが、いくら何でもそう虫のいいことは起こらないということは既に了解済みだ。だとすれば、最初に沙里葉に着いた場所、駅しかなかった。
「じゃあ、駅へ行きましょう」
何よそれ。まるで私が決めたみたいじゃないの――
マルカの言葉に、暖野は思う。
それでも目的がないよりはましというものだ。
「でも、このまま行って駅に着くの?」
いつまでも川べりを歩いていても、駅とは見当違いの方角になってしまう。
「もう少しここを歩きましょう。ノンノもこういう所は嫌ではないでしょう」
暖野は先ほどの思いを見透かされているように感じた。
そう、彼女はこういった雰囲気が好きだった。それに、単調な街路を行くよりは、いくらか変化があった方が気が紛れる。
灯りの消えた寒々とした家並みが見えない分、ここはずっとましだった。
遊歩道の川岸には金属製の柵が続いている。それらの幾つかは何故か大げさとも思える蝶番で開閉式になっていて、一部は実際に開いていた。
こんなのじゃ、転落防止の役に立たないでしょうに――
「ここは、港でもあるんですよ」
暖野が不思議そうにしているのに応えて、マルカは上を振り仰いで見せた。「見てください」
言われたとおり見上げてみると、確かにクレーンらしきものが見える。だがそれは港湾施設や工事現場にあるような巨大なものではなく、ごく小さなものだった。
言われてみて初めて納得できるほど、ささやかな港だった。街が生きていたときにはもっと活気があったのかも知れないが、夜の、それも人の気配の絶えた現在の姿からは想像もつかなかった。
「ここからは、どこへ行くことができたのかしら……」
大きな船だろうか、それとも小さな遊覧船くらいのものだろうか――
もっともクレーンがあるということは、少なくとも貨物の積み込みが行われていたのだろうから、見た目ほどには小規模ではないのかも知れなかった。
「月の湖の方へ行く連絡船が出ていたと聞いています」
マルカが言う。「ずっと南の方、海と呼ばれるもっと大きな湖への出口のある所まで行く船もあったらしいですよ」
「海? ここにも海はあるのね?」
暖野は訊いた。しかしマルカの口ぶりからは、彼が海と湖との区別も知らないだろうことが伺われた。
「ノンノは、海を知っているのですか?」
「ええ、もちろんよ」
暖野は応えた。
「湖とは、どう違うのですか? 私は、この湖よりも大きいということくらいしか知らないんです」
あらためて海とは何かを問われると、どう説明してよいものか返答に困る。湖は陸に囲まれていて、海は陸を囲んでいるとでも言えばいいのだろうか。しかし世界には陸に囲まれた海も存在している。かと言って淡水か塩水かで区別できるものでもない。
「私は――」
作品名:久遠の時空(とき)をかさねて ~Quonฯ Eterno~上 作家名:泉絵師 遙夏