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大地は雨をうけとめる 第7章 待つ者たち

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「子供の時は、昔話に出て来るような大金持ちに、自分もいつかなれると思ってたよ。よくあるだろ、貧乏人の兄弟の一番下の弟が、妖精や魔物に助けられて、大冒険の末に宝の山を手に入れる。そんな話が自分の身にも起こると、本気で信じていたよ」
 老人もかつては子供だった。当たり前のことだが、ときおり新鮮な考えのように思えるのは、大概の大人には見当たらないからだろうか。光をはじいて輝くガラス玉のようなものが。
「だがねえ、最近になって思うのだよ。もしかしたら、生きることそのものが大冒険なんじゃないか、ってね。初めて娘っ子をケシェクスに誘った時のことや、親父が死んだこと、嫁をもらった時のこと、息子が生まれたこと、羊が高く売れたとか、仔羊がたくさん生まれたとか、いろんな思い出がきら星のように輝いているように思うよ。息子が死んでから羊の数を減らしてしまったが、前は三百頭ぐらいいて、夏はずっと北の方まで放牧させていたんだ。夜の涼しい風に吹かれて見る天の川はきれいだった。夏の谷川を流れる水の鮮烈さ、忘れられないねえ」
 死期が近いことを、うすうす感じているのではないか。ルシャデールはいぶかった。訪れる度にカプルジャが澄んでいくように思えた。
 カプルジャの家から帰る道すがら、黙って歩く。
「灯は消える前が一番美しい」パルシェムがつぶやいた。「何かに書いてあった。詩だったかな」
 カプルジャのところでは挨拶したきりずっと黙っていたが、小童《こわっぱ》は小童なりに何か感じたのかもしれない。
「おまえ、ソワムの父親が病気なのを知っているんだろう?」
 パルシェムはぶすっとして答えない。
「どうして父親のところに帰してやらない」
「一度帰してやった」
「明日をもしれない命だったことも知ってるね?」
「ヘゼがいなくなったら、誰が僕の世話をしてくれるんだ?」
「使用人はソワムだけじゃない」
 パルシェムは彼女の前に回りこんだ。
「みんな……僕をバカにしている。僕の前ではペコペコして、後ろを向いた途端に舌を出すんだ。養父《ちち》だって、僕のことなんか本当はどうでもいいんだ。とにかく跡継ぎさえいれば。面倒なことは全部召使まかせだ」
 聞いたことがある、いや、言ったことがある、似たようなセリフ。四年前に。
「ヘゼだって、僕を好いちゃいないのはわかってる。だけど、ヘゼははっきり言ってくれる分、まだましだ。おまえなんか嫌いだって。仕方ないからいてやってるんだ、だってさ」
「へえ、意外と冷たい奴だね」
 侍従にそんなはっきり言われてしまうと、後がない。アニサードなら、絶対、そんなこと言わないだろう。
 彼女は四年前のことを思い出す。トリスタンにも心を開けず、周りの人間に攻撃的になっていた時、アニサードだけは掛け値なしの笑顔をくれた。
 この小童には、そういう人間が、一人もいないのか……。
「おまえは、ソワムにどうしてほしいと思ってる?」
 パルシェムは考え込んでいる。
「自分のことを見てほしい。わかってほしい。自分のことを一番に好きになってほしい。違うかい?」
 同じなんだ。私もこいつも、たぶん、誰でもみんな。
「見てほしかったら、見てあげないと。わかってほしかったら、わかってやらないとさ、相手からは何も……期待するものは何も返ってこないよ」
 こんな、偉そうなこと、四年前なら絶対に言わなかった。私も成長したもんだ、と、ルシャデールは思う。四年前の自分なら、こんなことを言われると、反発するだけだった。
 パルシェムは答えない。むっつりと目の前の道を見て歩いていた。

 彼は夕方、迎えの小馬で屋敷に戻った。へゼナードとアニスは依然として眠ったままだ。
 その晩、ルシャデールは再びシリンデの領域を訪れた。
 微風が頬を撫でる。月の他に明かりはなく、星も出ていない。
「シリンデ!」月に向かって女神の名を叫ぶ。「出てきなさい!」
 本当なら平伏《ひれふ》し奉るべき相手なのだろうが、ルシャデールにすれば、人さらいのごろつきと大差ない。
「シリンデ!」 
 返事をするように月がふくらみ、光芒が地上に流れ落ちる。光は落ちた先に人型を形作った。
 女神は二つの塔の間にすっくりと立ち、ルシャデールを見ていた。白い衣装が薄く柔らかに輝く。銀色の髪は頭から肩、かかとへと、ベールのように背をおおい、足元で渦を巻く。
「わらわを呼んだはそなたか」
 細面の白い肌。紅い唇。黒々とした瞳がルシャデールを射る。
「ソワムとアニサードを返して下さい」
「彼らは自ら、わらわの料地に入ってきたのじゃ」
「あれは、廃墟の館に棲みつく霊がコルメスと結託した罠です。彼らは好んであなたの料地に入ったわけではありません」
「わらわの知ったことではない」
「なぜ、二人をここに留め置くのですか?」
「そなたに説明する必要はない」
「それは、あなたも知らないということですか? あなたの上に座す存在によって、あなたも動かされている」
「そうやもしれぬ」
 シリンデは艶然と微笑む。
「神とは人間たちがより高位の力ある者につけた、都合のよい呼び名にすぎぬ。神と呼ばれるや全知全能であらねばならぬのか?」
「それほど力があるわけではないと、あっさりお認めになるのですね」
「そなたたち人間は力を誇示することを好むようじゃが、われらはその必要はない。ただ、あるがままでよいと識《し》っているからの」
「二人を返してください」
「ならぬ」
「どちらも待っている者がいるのです。アニサードは私にとってかけがえのない侍従ですし、ソワムは死期の迫っている父親がいます。息子が戻って来るのを待っています」
「死がなんの妨げになろう。死は愛を終わらせるものではない。ただ、生きる形が変わる、それだけのこと」
 ああ、またこの議論だ。カズックともそうだった。神という薄情な連中に、死すべき定めの人間の悲しみをどう理解させればいいんだ。
「ここ数日のうちに二人とも覚醒するはずじゃ。されどすでに門をくぐった身。前と同じとはいかぬ。狂人となって魂は、わらわの領地をさまようこととなろう」
 狂人……。ルシャデールは絶句した。
「狂気の中にこそ神は宿る。浮世の欲を離れねば、見えぬものは多い」
 詩でもそらんじるような言い方だった。
「神など宿らなくても結構! 浮世の欲とは何です? 彼らが受けるべき幸福を取り上げなければならないほど、傲慢で罪悪に満ちた欲を彼らが抱いていたと、おおせですか!?」
「狂人が幸せでないと、何故そなたに言えるのじゃ?」
「幸せなはずが……」
 ないではありませんか、そう言おうとしてルシャデールは止めた。本当にそうなのか、という疑念が生まれたのだ。狂ったことがない者に、狂気にある幸・不幸など判断できない。理不尽な苦しい運命を強いられた者が、耐えられずに狂気に逃げ込むのは、昔からあることだ。ということは、『最悪』ではないのだろう。
 狂った人間は冷静な感想など語ってくれない。