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泉絵師 遙夏
泉絵師 遙夏
novelistID. 42743
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エンペドクレスの羊

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街明かりが霞んで見えないほどの雨だった。風はなく、降りしきる雨が地面を叩く音が、この15階建てのビルの屋上にまで届いているかのように、はたまた街全体が震え泣いているかのようだった。
 誰もいない四角い庭。コンクリートの汚れたプール。
 傘もささず、私は踊る。殺風景な舞台。頭上で赤いランプが明滅する。
 私は笑う。水煙の中で乾いた笑いを。乾き切った心で。どれだけ雨に濡れようが、私の心はもう潤せない。
 激しい雨が風を生む。私は踊るのを止め、汚れた水の上に横たわる。冷たいのか暖かいのかも分からない。でも、この感覚も最後。水の、私の。
 屋上には低い柵があるだけで、高いフェンスなどない。非常階段は最上階までで、その上へは細い梯子《はしご》でしか上がれない。だから、ここには人は来ない。何をしようが自由だ。
 もういい、もう充分。
 私はゆっくりと身を起こす。自由になるために。
 街明かりは霞んでいる。夜の中に、薄ぼんやりと。
 柵を乗り越える。スカートがまとわりついて、上手く乗り越えられない。裾を引っかけて、危うく落ちそうになる。手が滑る。辛うじてしゃがみ込んで、転落は免れた。
 何を、怖がってるんだろう――
 でも、違うんだ。不可抗力でだとか、うっかりだとかでは駄目なんだ。私自身で決めたこと。私にしか出来ないこと。そして、私自身の意志でないと、いけないんだ。
 最後くらい、自分の意志でやりたい。
 柵に身を寄せて立ち上がる。
 下は見えない。この下は立入禁止区域になっている。だから、誰にも迷惑はかからない。
 すごい勢いで雨が落ちてゆく。深淵に吸い込まれるように。見えはしないが、その先には硬い地面がある。どれだけ血を流しても、全てはこの雨が綺麗に洗ってくれるだろう。
 無様な死体となっても、生きて無様なままよりはずっといい。死んでしまえば、それを無様だと感じる自分もいないのだから。
 終わり。
 どうか、最後のお願いを聴いてください。もし、神様なんてのがいるのなら。
 もう、二度と生まれ変わりたくないです。
 全部、終わりにしてください。
「さよなら、私」
 いままで、頑張ってきたよね。ごめんね……
 私は跳びあがる、少し前方へ。
「ごめんね、私……」
 雨の粒が視界に止まって見える。ビルの非常灯が過ぎてゆく。
 私は、ほんとうに久しぶりに心から安心した。

 人が地面にたたきつけられる音を聞いた者は、それを生涯忘れることができないという。しかし、折からの雨音にかき消されて、ひとつの生命が果てる音に誰ひとりとして気づかなかった。彼女の心は誰にも理解されず、その死も覚られなかった。
 雨が降りしきる。血がひび割れたコンクリートに描く模様も、彼女の最後の芸術も流されてゆく。誰にも見られぬままに。

   ※  ※  ※

 安らぎ。
 安らぎという言葉も意味もない、安らぎ。
 物音。
 その意味も知らぬ真っ暗闇から、目覚める。夢見ながら、目覚める。
 また物音。
 絞られる。身動《みじろ》ぎする。
 激しく押される。押される。流される。落ちる。
 あの時のように――
 霞んだ目に眩しい光が飛び込んでくる。
 ここは、どこ――?
 言葉を伴わない問い。
 話し声が聞こえる。意味のない音として。

「元気な女の子ですよ」
 産婦人科医が、生まれたばかりの赤ん坊を、母親の胸に抱かせた。赤ん坊は抱かれるとすぐに乳首に吸い付こうとする。必死にむしゃぶりつこうとし、ようやくとらえた乳首もすぐに離れてしまう。母親は胸の先端を軽くつまみ、吸いやすいようにしてやった。
 小さな手で乳房を抑え、母乳を飲む赤ん坊。長く続いた陣痛や出産の苦痛など忘れてしまったかのように、誕生した小さな生命を優しい目で見る母親。
 初めての、そして、時には最後の無上の幸せな時間。
「真悠子《まゆこ》」
 母親が名を呼ぶ。
 赤ん坊にとって、それは意味のない音の羅列でしかない。母親が、父親が、周りの人間たちが認識し、最後に当の本人がそれを自分の名だと理解するまでは。

 目覚めてゆく。
 どうして――?
 目覚めてゆく。
 嫌だ――!
 言葉に出来ない、ただの不快感、逃れたい思い。思いにさえ至らない、届かぬ思い。
 赤ん坊は泣く。真悠子は泣く。
 嫌だ、嫌だ、嫌だ!
 母親が駆けつけてくる。
 何か話しかける。
 真悠子は泣く。
 抱き寄せられる感覚に、赤ん坊が一瞬だけ泣き声を小さくする。だが、また泣く。

 嫌だ、嫌だ、嫌だ!
 抱き上げられる、優しそうな声が降ってくる。はだけた胸に顔を押し当てられる。
 違う、違う、そうじゃない!
 母親が何か言う。
「おむつは大丈夫なのにねえ、どうしたのかしら」
 嫌だ! 違う!
 歌が聞こえる。眠くなる。温かい胸に抱かれながら。
 そうじゃない……
 そうじゃないのに……
 ゆりかごのように揺られて眠りに落ちる。
 目の前がちかちかする。緑色の小さな光、黒いような、明るいような光が閃いては消える。
 見上げる目に映るもの。いつも抱いてくれる母親ではない。泣こうとする。
「だいじょうぶよ」
 それは語りかけてきた。
 ……
 目の前にひらひらふわふわと浮かぶもの。母親と同じかたちをしている。でも、ずっと小さい。
 わけが分からずに、また泣きそうになる。
「泣かないで」
 |それ《・・》が言う。「こわがらなくていいから」
 こわくない。だいじょうぶ。
 それは、歩くときに大きな音をたてない。それは飛んでいる、浮かんでいる。目の前でくるくると回ったりするのを見ているうちに、泣くのを忘れる。
「よかった」
 それは言った。「じゃあ、お話しよっか」
 寄せられた顔を見る。
「だいじょうぶ。ことばはなくても」
 どうして――
 嫌――
 嫌、嫌、嫌よ――
 どうして――?
 波。言葉のない思いの流れ。また、泣きそうになる。
「そんなに、いっぺんに言わないの」
 それが言う。「ゆっくり、ひとつずつでいいから」
 嫌――
「なにが、そんなに嫌なの?」
 嫌――
「ねえ、わたしの目を見て?」
 目を見る。小さな目。大きくなる。目の中に、吸い込まれる。落ちていく。
 嫌――!
 嫌、嫌、嫌――!!
 落ちる――!
 落ちたら――
 落ちたのに――
「そっか。あなたは、前の記憶をもっているのね」
 あたたかいものが、入ってくる。
 おかあさんのおっぱいみたいに。
――こわがらないで
 嫌――
――そう、嫌なのね
――もう、生まれたくなかったのね
――ものすごく、辛かったよね
 どうして――?
――あなたは、生きなきゃいけないからよ
 生きられないようにしておいて? ぜんぶ取り上げておいて――?
――生きて
 嫌よ。生きたくない。嫌、嫌――!
――もっと、私をよく見て?
 どうして……どうして生まれさせたの――?
――ごめんなさい。それは、わたしにはどうにもできないの。ひどいね。そんなに何度も何度も嫌な目に遭って、それでもまた生まれてくるなんて。神様なんて、いるのかしらね
 殺して。死なせて――
――ごめんなさい。それは、私には出来ないの
 どうして、私だけ――