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泉絵師 遙夏
泉絵師 遙夏
novelistID. 42743
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時計

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 風が窓を打つ。古びた窓硝子は蛍光灯の白々とした光を歪(いびつ)に反射して、外の暗さをことさらに際立たせている。
 この一種の肝だめしをするに当たって、美術室に立て籠もることを考えたのは圭子であった。しかし美術室は校舎の一番端にあり、しかも唯一の出口である廊下を例の時計に塞がれた形になっていることから、綾音が反対した。そこで、いざという時に逃げ道を確保出来る、隣の美術準備室で妥協することになったのだった。
 怪しまれないように、ひとまず鍵は返しに行く。しかし、その前に準備室の鍵を開けておくことを圭子は忘れなかった。綾音は、圭子がそれを忘れることを密かに願っていたのだが、その期待は儚くも裏切られてしまった。
 そうまで言うのなら、綾音自ら鍵を預かっていればいいと思うかも知れない。しかし、綾音にそれを任せると何を考えているのかすぐに表情に出てしまい、先生に怪しまれると言って、圭子が強引に引き受けてしまったのだった。
「ねえ、もういいじゃない。帰ろうよ」
 準備室の中で、綾音が情けない声を出した。
「せっかく今まで待ったのに? 何のために残ったのかは分かってるんでしょ」
「圭子。お腹空かない?」
「べつに」
「眠たくない?」
「眠いなら、寝ててもいいわよ。出て来たら起こしてあげるから」
 綾音は特に眠いわけではなかった。ただ、何とかして圭子の気を挫(くじ)こうと試みただけだったのだ。
 結局、綾音は澱んだ空気の中で、膝を立てた姿勢のまま黙り込んだ。
 廊下から乾いた靴音が聞こえてくる。
「見回りね。きっと、警報が出たんだわ」
 圭子が声を低めて囁いた。
 そんなもの、とっくの昔に出てるわよ……。綾音は胸の裡で圭子を罵った。そして、自分自身をも。
 あの雨の日に、圭子は言ったのだった。
「この償いはしてもらうわよ。いい? 綾音は私に付き合うのよ」
 そもそもの原因が自分にあるだけに、綾音は歯がみする思いだった。
 綾音は暗い中で腕時計を見た。針は三時五十分を指していた。
 外では風が唸り、雨滴が硝子を叩いている。多分、今朝がた北にあった前線が南下して活発化したのだろう。
 本当ならこんな時には、TVにかじりついて台風情報を見ている綾音だった。しかし、ここにはTVはおろかラジオすらない。ここにある情報源といえば、生徒達の作品などを包んだ古新聞ばかりだった。
 足音が遠ざかって行く。綾音はここが発見されるのを願っていた。急に大声を上げようかとも思ったが、彼女自身いけないことをしているという後ろめたさがそれをさせなかった。
 一瞬、目も眩(くら)むような閃光が、潜んでいる場所を濃い明暗(コントラスト)で浮き彫りにした。雨が一層激しさを増し、窓硝子が石の礫(つぶて)を投げつけられたように鳴った。
 遠雷が遠い潮騒のように、長く尾を曳いて雨音の彼方に消えていった。
「もうそろそろね」
 圭子が呟く。
「ね。今なら、まだ間に合うわよ」
 綾音のその言葉は、沈黙のうちに葬り去られてしまった。
「ねえ、ほんとに……」
 圭子は扉の向こうに注意を集中して、ひとり頷いただけだった。
 諦めるしかなかった。こうなったら、何事もなくすべてが終わってくれることを祈るばかりだった。
 扉をそっと開けて外の様子を素早く窺うと、圭子は後ろに控えた綾音に頷いてみせて、無言で後に続くよう促した。
 まだ九月だというのに、この時間にしては恐ろしく暗かった。
 白い光が閃き、雷鳴が轟く。
 二人は極度の緊張の中、少しずつ足を運んだ。
 突然、時計が大きな音をたてた。危うく二人はその場に尻もちをついてしまうところだった。その瞬間、二人は同時に短い悲鳴を発していたが、すぐさま鳴り渡った雷鳴にかき消されてしまっていた。
 暗く澱んだ空気の中に、断続的なノイズのような雨音と雷鳴、そして時計の時を刻む音と彼女たちの叫びといったものが、縺(もつ)れあいながら時間の淵の中で奇妙に反響した。
 それらのどよめきが消え、雨音が聞こえるだけになっても、二人はすぐには動くことが出来なかった。再び動こうとするには、萎えてしまった勇気をもう一度奮い立たせなければならなかった。耳が雷鳴の余韻から解放されると、雨音の中に乾いた単調な音が聞こえてきた。
 それは、時計が時を刻む音だった。
 彼女達二人の他には誰もいない廊下で、それは積み重ねられた時の重さを背負いながら、誰のためでもないタップを変わらずに踊っているようにも感じられた。
 綾音はその音を聞いていると、誰かがどこかから静かな足取りで近づきつつあるように思えてならなかった。
 綾音は恐ろしくなって逃げ出すというよりも、むしろ音の方に向かって足を踏み出した。
「綾音……?」
 圭子が心配そうに声をかけた。
 綾音は、つい先刻圭子がやったように、彼女の方を振り返って静かに頷いた。
 後を追って圭子も歩き出す。足音を忍ばせる必要などないのに、二人は知らず爪先立ちになっていた。
 静かな、しかし確かな足取りで綾音は進んだ。ほんの少しの距離が、恐ろしく長く感じられた。
 時計の音は、不思議にも綾音の胸の鼓動と同調しているようだった。
 綾音は不確かな足下(あしもと)を確認するかのように、ゆっくりと歩いていた。しかし、その這うような歩調が圭子には速過ぎるように思えてならなかった。
「呼んでる……」
 綾音が前方を見据えたまま呟いた。
「え?」
「呼んでるの……。聞こえないの? ほら――」
 耳を澄ましてみたが、圭子には雨の音と時計の単調な旋律以外何も聞こえはしなかった。
「綾音……」
 圭子は何だか怖くなってきた。
 綾音が……、綾音がおかしくなってしまった!
 圭子は、綾音を巻き込んでしまったことを後悔した。実のところ、霊感は圭子の方が強いのである。だから、何かあったとしたら、それは自分の方にだと思っていた。その時のために、圭子は綾音を無理にでも連れて来たのである。
 しかし、まさかこんなことになろうとは! 圭子は、綾音がもはや自分の手の届かない遠い所へ行ってしまったような気がした。
「綾音!」
 その声は、閃光とともに鳴り響いた雷鳴によって、虚しくかき消されてしまった。

 時計の確かに時を刻む音だけが、そこを充たしていた。
 綾音は時計と対峙するような形で向き合ったまま、身じろぎひとつしなかった。
 稲妻が迸り、文字盤を覆った硝子がそれと同じ色の光を放つ。轟音が、まるで綾音を現実へと連れ戻そうとするかのように、彼女の意識をほんのわずかだけそちらの方に向けさせた。
「あなたは――」
 優しい透き通った声が、綾音を彼女の属する現実から引き離した。
「誰……?」
 綾音には、それが誰なのかということはすでに判っていた。
「あなたは……、いつも私を見てくれていた人ね……?」
 その声は、ひどく曖昧な輪郭をもっていながら、渓流を流れる澄んだ水のように綾音の胸に清冽に響いた。
 綾音は思わず後ずさりした。
「怖がらないで。……お願い……」
 嘆願するようなその声の響きに、綾音は何だか憐れみを感じて立ち停まった。
 文字盤の丸硝子は最初、綾音の顔を映していたが、やがてそれは別の少女のものへと変わっていった。
作品名:時計 作家名:泉絵師 遙夏