時計
しばらくして、綾音は言ってやった。
「そっか……。綾音にも、ついに彼氏が出来たのか。それも、大学生の……」
「大学生になるつもりの人よ。それに、彼氏だなんて言った憶えはないけど」
「幸せ?」
綾音の言葉を無視して、圭子は訊いてくる。
「さあ。そんなこと、まだ分かるわけないでしょ」
「それもそうね」
正直なところ、綾音自身にもまだよく分からないのだった。なにしろ、たった一度会ったきりだし、「好き」という感情から始まったわけでもないのだ。ただ、気が合ったとでも言えばいいのだろうか。いずれにしても、お互いに親しみを持てるほど、多くを話したわけではなかった。
「でも、大学受験ともなれば、そうそう会うことも出来ないね」
綾音が言った。
「何? もう、悩みの相談室?」
「悩みってほどでもないけどね」
綾音は誰もいない自宅の廊下で、ひとり苦笑いした。
「せっかくのチャンスだもんね」
「好きに思ってて」
「まあまあ……」
なだめるように圭子が言う。「恋が始まったばかりのときは、普通そんな心配なんてしないものよ。それに、来年は私達の番なんだからね」
「友達とも言えないわ。まだ……」
「まあ、綾音の顔を立てて、そういうことにしておきましょうか」
ニヤニヤ笑いが見えるような、圭子の口調だった。
あと五日で今年も終わりだ。
圭子との電話を切ると、綾音は部屋着の綿入れの袖から、先日行った店のコースターを取り出した。それには、かなり汚い字で走り書きがしてある。綾音はそれを確かめながら、慎重に番号を押して行った。
受話器を持つ手が微かに震える。
呼出音――。一回、二回、三回――六回、七回……。
一〇回鳴って、相手が出なければ、切ってしまおうと綾音は決めていた。その胸が破裂しそうなほどに高鳴っていて、それ以上はとても耐えられそうになかったからだ。
「はい――」
ちょうど一〇回目で相手が出る。綾音の時間が停まった。「小泉ですが」
「あの――」
そう言ったきり、綾音は言葉を失った。
「もしもし? ――ひょっとして……」
「基松です……」
辛うじて、綾音はそれだけを言った。
「やっぱりそうか。もう、大丈夫?」
「はい」
「俺のせいだな。潰しちまったのは」
小泉一志がすまなそうに言う。
「いえ、そんなこと……。でも……、あの――私……」
「何?」
「私……、約束したから――」
「ああ、あのこと」
一志が声を弾ませる。「憶えててくれたんだ」
「どうします?」
「俺は、どうせ前の晩から連れの所で遊んでるけど。まさか、それに付き合わせるわけにもいかないしな……」
「じゃあ――」
「まさか! 綾音ちゃんとの予定は特別だよ。何としてでも行く」
その言い方に、綾音は何だか可笑しくなった。おかげで気分がいくらかほぐれた。
「そうだ。こうしよう――」
その後、二人は初詣の計画を一時間もかけて話し合うのだった。
こうして、綾音の多忙だった一年は、来(きた)る年への希望と不安に包まれて暮れてゆくのだった。