時計
これまで綾音は、みゆきにあまり好感情を持っていなかった。だから、こうまで自分のことを擁護してくれるみゆきに対して、綾音はひけ目を感じずにはいられなかった。
「せっかくのパーティーなんだからさ。そんな話はもうやめましょうよ。――男の子達も何だかしらけちゃってるわ」
そう言ったのは御園優歌だった。彼女は、今日のメンバーの中では一番の優等生である。
「ごめんなさい」
美依子が男の子達に向かって謝る。
「じゃあ、もう一度はじめからやり直しましょう」
店に入ると、くじ引きで、まず席順を決める。男同士、女同士が隣り合わないよう、男女別々にである。
席さえ決まれば、後はそれぞれ自由にやってくれということだったが、綾音はどうすればよいのか分からず、隣の男の子を気にしながらも、一人で食べ、一人で飲んだ。
少し離れた所では、すでに意気投合してそれらしい雰囲気になっている組み合わせもあった。よく見ると、それは先刻まであんなに怒っていたみゆきだった。その身振りの大きさからして、大方学校での噂話でもひけらかしているのだろう。
そんな光景を少々羨ましげに眺めながら、綾音はグラスに手を伸ばした。そして、それを口に持ってゆこうとしたとき、隣に座っていた男の子が慌てて言った。
「それ……」
「ん?」
綾音は投げやりに視線をそちらへ向けた。
「俺の……」
「だから?」
挑むような、綾音の口調である。
「飲めるんなら、いいよ」
男の子は言った。その目元が興味深げに少しばかり笑っている。「やめた方がいいとは思うけど」
お熱いところを見せつけられて、綾音は少々頭に来ていた。それに、人を小馬鹿にしたような、隣の男の目つきも気に喰わない。
「放っといてよ」
言い放つと綾音は、グラスの中の琥珀色の液体を一気に胃袋へと流し込んだ。
途端に激しくむせて、乾いた咳を連発する。
男の子が彼女の背中をさすり、しばらくしてようやく咳はおさまった。胃の辺りがまだ灼けるように熱い。
「何なの? これ」
「バーボン」
彼は素っ気なく答えた。「だから、やめといた方がいいと言ったんだ」
「ストレート?」
綾音は先刻の刺激を思い出して訊いた。
「ああ。なまっちょろいのは嫌だからな」
「カッコつけて。まだ高校生のくせに」
綾音は言ってやった。
「お前こそ、高校生のくせして自棄酒かよ」
「麦茶だと思ったのよ」
二人して、笑みが洩れる。
「私のこと、“お前”なんて呼ぶの?」
「何て呼べばいい?」
問い返されて、綾音はまだ相手の名も知らないことに気づいた。先刻、自己紹介の時にろくに話を聞いていなかったからだ。
「人に名前を訊くときは、先に自分から名乗るものよ」
「俺は言ったよ」
「私だって」
二人は見つめ合った。綾音は少し酔っぱらっているせいで、普段より大胆になっている。
「じゃあ、もう一度最初から……。ね」
綾音は明るい声で言った。男の方も、それに異存はないようだった。
「俺は、小泉――。小泉一志(かずし)っていうんだ」
「私、基松綾音」
二人はあらためて自己紹介した。
「何年?」
綾音が訊く。
「三年だよ」
「みんな、三年生なの?」
綾音は意外な気がした。そう言われてみれば、少し大人っぽい雰囲気があるようにも見えるが、そうと感じられる程度にである。
「いや、二年の奴もいるし、先輩もいる」
「同じクラスの人じゃないの?」
「クラブのメンバーさ」
一志は言った。
「何のクラブ?」
「サッカー部」
綾音は少しがっかりしたが、仕方のないことだ。全国に名を馳せたラグビー部を期待しても、今の彼らは優勝に向けて練習に余念がないはずだからだ。
「でも、三年生なんでしょ」
三年生は、二学期になると大抵はクラブ活動から外される。そういう意味を込めて、綾音は訊いた。
「ああ」
「就職?」
そんなことを訊いたのは、受験組がこの時期に遊んでいるはずがないと思ったからだ。
「いや、受験組だよ」
「だったら――」
「あとは神頼みさ」
綾音の言葉を遮って、一志は言った。
「頭いいのね」
「そうじゃないけど。――捨てる神あれば拾う神ありって言うじゃないか」
「うわっ、何だか古臭い。――でも、捨てる神しかいなかったら?」
「さあね。その時はその時さ」
そう言って、一志は新しく来たグラスを空けた。
「すごい! 一気で飲んじゃった」
綾音はそれを見て、すっかり感心してしまった。
「これは、こうやって飲むものさ。味わって飲むものじゃない」
「ふうん」
「先刻の――」
そこまで言って、一志は考える目をした。
「何でもいいわよ。お好きなように」
一志の考えていることを読み取って、綾音は言った。一志は、綾音を何と呼べばいいのか迷っていたのだ。
「先刻の飲みっぷりは、なかなかさまになっていたよ。ひょっとしたら、こいつ飲めるんじゃないかって冷や冷やしてた」
一志は結局、わざと呼称を省いて言った。
「飲めたら、どうだって言うの?」
「絡まれでもしたら、たまったもんじゃないと思った」
「まさか!」
綾音は大きな声を出した。「そんなふうに、私のこと思ってたの?」
「だって、それまでの飲み方だって、かなり荒れ模様だったからさ」
「飲み方って、たかがお茶じゃない。でも、これからは、ちょっと控え目にするわ」
綾音はおとなしく言った。
「うん。その方が可愛いよ」
「もう、馬鹿にして!」
綾音は怒ってみせた。
「何だかねェ……。バーゲンセールの付け合わせみたいで、随分安く見られたもんだなって、我ながら情けなくなっちゃう」
受話器を握り締めて、綾音は溜め息をつく。
「でも、結局は次の約束までして来ちゃったんでしょ?」
「うん……。でもね、私はもっとロマンティックな出逢いがしたかったのよ」
「馬鹿ね。そんなこと言ってたら、いつまで経っても独りもんよ」
圭子の口調が説教じみてくる。こと恋愛に関しては、圭子に遠く及ばない綾音だった。
「そう?」
「大体、男と女の出逢いなんて、本人が期待しているよりも結構シビアなものよ」
「そんなもんかな……」
綾音は、腑に落ちない思いで言った。
「そんなもんよ」
妙に醒めた口調で圭子が言う。
「それにしても――。きっかけが、お酒の勢いで絡んだってとこ、いかにも綾音らしいね」
受話器の向こうで圭子がくつくつ笑う。
クリスマス明けの二六日。TVなどでは昨日までの賑やかなクリスマス番組に代わって、鼓や笛の音が、すでに落ち着いた正月の雰囲気を演出している。
それにしても、昨日は酷い一日だった。初めてアルコールを口にしたために宿酔(ふつかよ)いで頭が割れそうに痛み、胸のあたりには蛸が内側でのたうっているようなむかつきが常にあった。一旦トイレに入ると一〇分は出られなかったし、喉はひどく渇いているにもかかわらず、水を飲めば激しい吐き気に襲われるのだった。
飲み過ぎなのはパーティーの最中から分かっていた。けれどもその場の勢いで、ついついアルコールに手が伸びてしまったのだった。
綾音は、圭子が笑うに任せていた。電話線で送れるものなら、軽くげんこつでもお見舞いしてやりたい思いだった。
「もう、気が済んだ?」