おしゃべりさんのひとり言【全集1】
その44 家付きホームレス
(あ、あの人・・・うん? そうかな?)
ちょっと近寄ってみた。
地元から新幹線の駅二つ離れた街、公園の緑地に設置されたベンチに、ノートPCを置いて地べたにあぐらをかく男。
(似てる・・・)
ベンチの横には、50センチほどの大きさのソーラーパネルを置いて、それから電源を取っているようだ。それと斜めに置いた雨傘は、画面を見やすくする日よけなのか。
(やっぱり、間違いない。木之元〈仮名〉だ)
あれは5年位前のことだったけど、僕は声をかけられなかった。なぜかと言うと、そのベンチの横に段ボールや廃材で組んだような小屋があって、古いブルーシートが覆い被せてあったからなんだ。そんな住居らしいものが数軒並んでいる。・・・・・・つまりホームレス。
(木之元・・・そんなことしてるんか)
その木之元君は中学の時、同じバスケットボール部で練習してた旧友なんです。以降は全く連絡を取っていなかったけど、彼のくせ毛や、顎にあるアザに見覚えがあって、絶対間違いない。
当時の彼は、ガリ勉で有名だった。でも運動神経はかなり鈍くて、両足がやや内股になった歩き方を揶揄われたりしていた。そんな彼が中学1年の時、途中からバスケ部に入部して来たんです。
動機は運動能力の改善。確かに目的意識は、はっきりしていた。彼が、陸上部やサッカー部ではなく、バスケ部を選択した理由は、中学のクラブの中でも強豪と言われ、かつ最も激しい運動量のスポーツだったかららしい。
彼が毎日の練習で、5キロ走る部員に付いて来れるようになるまでは、かなりの日数を要した。でも、それまで毎朝一人で、自主的に走っていたようだ。
当初は、誰も彼を選手の一人として見ていなかったんだ。ちょっときついパスを出すと、受け取れないから。彼は授業中でも握りこぶしを作って、腕が太くなるように、手首を動かし続けていた。でもフリーシュートを打っても、ゴールリングまで届かない。
あの重いボールは指先に乗せ、そのスナップで高速回転させてシュートを打つものだけど、彼にそんなパワーはなかった。たしか僕は、遠くからシュートする時の裏ワザを、彼に教えてあげた。それは指先ではなく、手の平、特に手首に近い位置に載せて、そこから指先までボールを撫でるように、まるで紐で駒を回すような感覚でシュートを打つと、意外に遠くまで飛ぶんです。
彼に与えられし背番号は、同学年では一番最後の番号。しかし彼は、日を追うごとに段々と、バスケが出来るようになって来た。勉強用の銀縁眼鏡をかけ、ドリブルをして走る姿は相変わらず内股で、初めて見た人からは笑いが起きるようなスタイルだったけど、バスケの実力は、試合でもなんとか格好が付くぐらいにはなって行った。
その内、長距離ランニングでは、いつも彼が先頭を走れるようになった。僕たちバスケ部員は、もう木之元君をバカにするようなことはなくなっていた。3年になって僕らは引退したけど、彼は早朝ランニングは止めずに続けた。
秋に僕らの中学では『陸上競技記録会』というのが開催された。普通はこの時期なら運動会なのだろうけど、この年だけなぜかそうではなく、近くの陸上競技場を貸し切りで、全校生徒が予めエントリーしたいくつかの競技で記録を競う。
バスケ部員のほとんどは、ジャンプ競技に出場した。僕は走り高跳びで優勝したし、他の部員は走り幅跳びや三段跳びで優勝していた。
そこで木之元君が出場したのは、400メートル走だった。スタートまでの準備運動は、ものすごく念入りにしていたのが印象に残っている。いつもの柔軟体操の後、競技場の周辺を30分ほど走って体を慣らし、スタート直前までジョギングを止めないつもりのようだった。
その理由を僕は分っていた。猛スピードで毎日5キロも走っていると、苦悶の先のランナーズハイに入るのが分かるのだった。そうすると、最後の運動場の1~2週なんて、全力疾走でも苦しくないようになってしまうのだ。
結果、彼は400メートルのトラックを内股で、なんと50秒以内で一周して優勝した。2位とは比べものにならない、ダントツの記録だった。しかしスタンドの生徒には、驚きで笑いが巻き起こっていたのだ。誰も木之元君の実力を知らなかったから。
彼はもともと勉強もよく出来たので、校内実力テストで1位の常連になってた。彼の影響で僕らもテストの成績が良くなった。
その後彼は、高偏差値の有名私学高校へ進んで、その系列の大学に上った。高校で別れてからは、20歳の頃、クラブの同窓会で一回会っただけで、その後の連絡は取ってなかったんだけど・・・
作品名:おしゃべりさんのひとり言【全集1】 作家名:亨利(ヘンリー)