Riptide
アイスを一つ手に取ると、結子は言った。白戸が言われた通りにすると、結子はレジの後ろから、シュートを決めるように、器用にアイスを投げ込んだ。思わず飲み込みそうになった白戸は、声に出して礼を言うことができず、頭を何度も下げた。結子は笑った。
「もごもごしてりゃ、分かんないよ」
どうにかしてアイスを飲み込んだ白戸は、言った。
「ごちそうさまです。お変わりないですか?」
「うん。ないかな。白戸くんは?」
警察官が聞き返されることはそうないが、結子が相手となると話は別だった。少しだけ世間話をして店を出た白戸は、原付に乗って、山道の方へと向かった。一度不審者が出ただけで様々な都市伝説が生まれた、少し薄暗い県道。不審者にしても、ぽつりぽつりと点在する廃墟を目当てにやってきた人間に違いないし、そのためにパトロールの時間が大幅に増えるのは、無駄な気がした。しかし、河田警部は本気で『不審者』をゼロ人にすると息巻いている。
・午前九時半
体内から、水分が容赦なく出ていく。上谷は、日光を避けるように、日陰の岩に腰を下ろした。湿った苔がジーンズを容赦なく濡らしたが、全く気にならなかった。細く流れる沢のような水を見つめながら、顔色をなくした高石は言った。
「その水、飲んだらだめかな」
上谷はすぐに返事できず、答えを求めるように、空に向かって高く伸びるを木々を見上げた。スマートフォンの電波は、林の中に入るのと同時に途絶えた。地図は開けるが、自分がどこにいるのかが分からない。航空地図で見ると、自分たちが入り込んだ雑木林は巨大な緑色の塊で、目印になりそうなものは何もなかった。なだらかな坂を相当上ったはずだったが、振り返ると見えていた海岸線もいつしか見えなくなり、方向感覚は完全に狂っていた。上谷は、あの海岸線か、林に入ってすぐに越えた柵が再び目の前に現れないことを祈っていた。これだけ歩いて、元の場所に戻るわけにはいかない。見渡す限り人がいないという事実は二人を安心させたが、それでも、土地勘のない山を越える困難に比べると、顔を見られるリスクを冒してでも、どこかの店に駆け込んだ方がいいのではないかと、上谷は考えていた。それぐらいに、この強行軍は体力を奪っている。尾根がどこにあるのかも分からず、高石の履いているサンダルのようなスニーカーは、葉や泥が絡みついて、地面の一部のようになっていた。
「やめとこ。ねえ、ちょっと休んでいい?」
高石は木の幹に腰を下ろした。傾きがちょうど車の座席のようで、頭を預けると首筋から凝り固まった気のようなものが抜けていくのを感じた。上谷も、一度腰を下ろした岩から動けそうになかったが、ほとんど崖のように見える上り坂を見つめて、言った。
「あの崖みたいなとこさ、俺上がってくるから」
「いやだよ、待ってろってこと?」
高石は首を強く横に振った。上谷は言い聞かせる気力も残っていないように立ち上がった。大学を出てから無職が続いていた上谷に今の仕事を紹介したのは、当時、居酒屋の店員をしていた高石だった。無職なのに出入りしている上谷を面白がって、『知り合いが人集めてるけど』と誘ったのがきっかけだった。その知り合いが宇多で、三人は一度顔合わせしたあと、昨日そのシステムが崩壊するまでの一年間、仲良しトリオとしてやってきた。
宇多を連れていくことを、思いつきもしなかった。上谷は、木の幹にすがるように頭を預けている高石を見ながら、思った。付き合っているわけではないし、今でも、出会ったときの客と店員のような関係は続いている。しかし、夜中に息を殺して行動を開始したとき、高石も逃げるべきだと咄嗟に判断した。
「もう少し高いところに行けば、何か分かるかもしれない」
言葉を発するだけで体力を外に吐き出しているようで、上谷は顔をしかめた。高石は力なくうなずいた。
「じゃあ、私はここにいるから。分かったらどうするの?」
「戻ってくるよ」
上谷が言うと、高石は眠ったのかと思うぐらいに長い瞬きをして、呟いた。
「二度手間じゃん。疲れちゃうよ」
「電波ないし、呼べないだろ。まあ、ちょっと待ってて」
上谷はそう言うと、返事を待たずに急斜面の前まで歩いて、木の根を足掛かりにしながら登り始めた。
高石は、左腕に巻かれた、血で変色した布に寄ってくる羽虫を手で払いながら、航空写真を眺めた。山に入って、柵を乗り越えた。しばらく上っていると下り坂になって、海岸線が見えなくなった。稜線の陰影が想像通りなら、二人がいるのは、まだ林の入口ということになる。縮尺はよく分からなかったが、想像以上に広い林だった。高石はため息をつくと、急に空気が冷え込んできたように感じて、体を縮めた。体力を温存するように目を閉じて、数秒が経ったとき、遠くで銃声のような乾いた音が鳴り、元の張りつめた現実に引き戻された。雲が切れて直射日光が差し込み、新たに涼める場所を求めて少しだけ移動しようと思い立った高石は、重い腰を上げた。
グラデーションのように満遍なく錆が浮いたセドリックバンは、研吾の高校時代の友人かつ、貸しボート屋の共同経営者である村井の車で、次の車検を通して延命できるかは、村井には全く自信がなかった。それを証明するように、突然リアタイヤが爆発音を鳴らして車体が傾き、村井は慌てた様子もなく路肩に寄せた。助手席に座っていた研吾も、村井の車のトラブルには完全に慣れきっており、ぐるりと首を回して振り返った。
「整備しなって」
「おっかしいな」
村井は運転席から降りると、完全に試合を放棄したような左のリアタイヤを眺めた。研吾も外に出ようとしたが、助手席のドアは去年ぶつけてから開かなくなっていることを思い出し、ベンチシートを移動して運転席側から降りると、隣に立って笑った。
「バテてんな」
「バーストだよ」
村井は目を細めて、海の方を見ながら言うと、研吾の肩をぽんと叩いた。
「いつものサーファー来てるぜ。ピンクとレッドだ」
「お、マジか」
ピンクとレッドは初心者サーファーだが、海開きになると水着姿で現れる大学生の姉妹で、泳いでいる時間よりも、研吾と村井が手伝う海の家にいることの方が長かった。だらしなく傾いたセドリックを置いたまま、研吾と村井は海に続く鉄階段を下りた。今日は、来週の海開きの準備でほぼ一日が終わる。資材はセドリックの荷室に積んであるが、あと何往復かする必要がある上に、手で持っていけるような軽いものはなかった。ウェットスーツの色から名付けられた二人は、研吾と村井の姿に気づくと、笑顔で手を振った。
「気が早いね。来週だよ」
村井が言うと、ピンクが笑った。
「今のうちに波に乗っとかないと」
レッドがその言葉にうなずき、研吾の髪を見て言った。
「それ寝ぐせ? スタイル?」
「両方」