Riptide
「警察から止められとってね」
どことなく、警察に目をつけられる理由が分かる気がして、翔平は俯いたまま笑った。田井はその笑顔を見逃さずに、言った。
「坊主、腹減ってないか?」
「減ってます」
田井は、サイドポケットからソフトボール大のおにぎりを取り出すと、差し出した。
「具はないぞ」
「あ、ありがとうございます」
リュックサックからおにぎりが出てくるとは想像していなかったのか、翔平は慌ててぺこりと頭を下げた。田井は水を一本渡し、無言で食べ始めた翔平と、来た道を引き返した。
入口までたどり着くと、電気柵のスイッチを切り、扉の鍵を開けた。
上谷は、怪物のようにそびえる林を振り返った。崖のような下り坂で一度足をくじきそうになったが、それでも、ガードレールが見えるところまで下りてくると、突然景色が開けて、照明柱や真っ黒に固められたアスファルトが現れた。二度と山には入りたくないが、高石のところへ戻らなければならない。上谷は残りの力を振り絞り、目の前に見える自販機に向かって、道路を横断した。汗でもみくちゃになった皮財布を抜き出すと、スポーツドリンクを買って、一気に飲み干した。喉から体の隅々に水が浸透していくような感覚だった。二本を買い足すと、高石が好きなぶどう味の炭酸ジュースも一本買った。問題は、このまま歩いて戻れるかということ。車が必要だ。そう思ったとき、上谷の言葉を聞いていたように、坂道を下りてくるエンジン音が聞こえてきて、上谷は咄嗟に自販機の後ろへ隠れた。
廃墟の中は薄暗く、大人の男でも怖いぐらいだった。それでも我慢して見て回ったし、名前も呼び掛けたが、当然人の姿はなかった。村井は、セドリックバンを『リフレッシュコーナー』に寄せると、運転席から降りた。次は林の前で、おそらく研吾たちと集合することになる。廃墟の中を歩き回って汗だくになっていた村井は、オレンジジュースを買うと一口飲んだ。
「あっちいな……」
独り言を呟いたとき、今探している三人はもっと喉が渇いているだろうと思い立って、村井は子供が好きそうなジュースを二本ずつ、全部で六本買った。取出口でがんじがらめになっているジュースの缶を無理やり取り出していると、背後で空吹かしの音が鳴った。回転が戻った時の咳き込むような音で、自分の車だと気づいた村井は振り返った。運転席に、ホームレスのようにくたびれた若い男が座っている。
「おい、あんた!」
村井が駆け寄ると、セドリックバンは突然後退した。中の男がそうしているのは間違いなかったが、村井の目には、自分の車が突然意志を持って動き出したように見えた。村井はドアノブを掴んだが、大きくへこんだ助手席側のドアは開かず、自身の整備不良を呪った。
「くそっ、待てっておい!」
村井の言葉を裏切るように、前進を始めたセドリックバンのリアタイヤが、村井の右足を容赦なく乗り越えた。骨が折れて、村井は尻餅をついた。左手に残った缶ジュースを投げたが、力なくリアウィンドウに跳ね返り、商品が無駄になっただけだった。
「あっ、村井も来てますね」
あちこち傷だらけのセドリックバンが『リフレッシュコーナー』にいるのが見えて、研吾は言った。中で荒っぽく転回しており、その運転の仕方もいかにも村井らしかったが、立ち去ろうとするように山道へ鼻面を出したのを見た研吾は、困惑したように目を凝らせた。
「どこ行くんだ?」
今すぐにでもこの場から離れたいように、セドリックバンは合流するタイミングを伺っていた。片足立ちになっている村井の姿を見つけた研吾は、窓を下ろして叫んだ。
「村井!」
だとしたら、運転席に座っているのは誰だ。研吾が視線を戻したとき、アルファードが急加速して、ヘッドレストに頭が押し付けられるのを感じた。勝俊はアクセルを底まで踏み込み、セドリックバンの運転席めがけて突っ込んだ。時速四十キロで側面衝突されたセドリックバンは、くの字に折られたように歪み、ガラスが衝撃で爆発したように散った。その大半が上谷の横顔に突き刺さり、ひしゃげたフェンダーの隙間に足が挟みこまれた。アルファードのエアバッグが全て開いて研吾の視界は真っ白になり、音と火薬の匂いで何も見えなくなった。勝俊はエアバッグを避けながらバックギアに入れると、アクセルを再び踏み込んで離れ、すぐに停めた。運転席から飛び降りて、折れ曲がった運転席で頭から血を流している男に、覚えている名前を聞かせた。考える間もなく、全員の名前に反応した上谷は、観念したように言った。
「……、上谷だ」
「うちの子をどこにやった」
勝俊は開きかけているドアを蹴飛ばした。足がペダルと車体の隙間に押し付けられ、上谷は悲鳴を上げた。そのまま体重をかけた勝俊は、上谷の頭を掴んで力一杯揺すった。
「人が質問したら秒で答えろ!」
圭織はその様子を見ながら思い出していた。『超人』と呼ばれた証券マン時代と、同じ言葉遣い。その気迫と容赦のなさは、揺らいでいなかった。勝俊が何かを諦める姿は、見たことがない。バッグの中で着信音が鳴り、圭織はスマートフォンを取り出した。メールが立て続けに届き、着信履歴が次々追加され、最後に新しいメッセージが届いた。
『田井さんの家にいます。無事です』
「勝俊、翔平からメール来た! 大丈夫だって!」
圭織が言うと、勝俊は、上谷に対する興味を完全になくしたように、頭を離した。
結子は一瞬だけ頬を緩めると、研吾に言った。
「逃亡犯だわ。河田さんに知らせないと」
研吾はスマートフォンを取り出すと、まだはっきりしない頭でメモを見ながら、河田の携帯電話の番号を打ち込んでいった。