Riptide
四
正人は、家の鍵をよく閉め忘れる。むしろ、正人だけが家にいるときは、鍵が閉まっていることの方がまれだった。明弘は、玄関の鍵が閉まっていることに気づいたとき、心臓が跳ねるのを感じた。骨の中から押し出されるような痛みだった。玄関にはいくつかスニーカーが並んでいるが、正人がどれを履いて出たか、記憶はあいまいだった。家の中に人の気配はなく、壁にかかった時計は、十二時半を指している。
「……帰ってないのか?」
居間を覗き込んだが、正人が大好きな巨大テレビは真っ暗で、ゲーム機も外に出ていない。明弘はランドセルをソファの上に置くと、二階に駆け上がった。留め金が潰れてから、正人は自分の部屋からランドセルを出すことはなくなった。部屋のドアを開けたが、ランドセルは置かれていなかった。明弘は一階に下りると、最後に冷蔵庫を開けた。昼ご飯が、自分の分も含めて二つ置いてあった。明弘は、玄関のカゴに放り込まれた鍵を掴むと、自転車に飛び乗って、学校までの道を全速力で走り始めた。
交番に出前されるラーメンは、茅野マートの裏に店を構える『ラーメン百万馬力』の特製品で、白戸も含め、交番に出入りするほとんどの警察官が、昼にはそのラーメンを食べる。同じメニューでも飽きが来ないよう、店主は少しずつ味を変えており、隠し味を当てるのが楽しみになっていた。和室で、空っぽになった鉢を眺めながら、白戸は小さくため息をついた。今日は、味が全く分からなかった。あのハイラックスサーフ。紺色で、あちこちにぶつけた跡があって、一部は錆びており、県外ナンバーが付けられていた。ホワイトレターが入ったオールテレインのタイヤに、ほとんど黒に近いアルミホイール。サイドステップやルーフラックなどは、社外品が装備されていた。朝、あの二人に声をかけたときは、そういった特徴しか、気づかなかった。さっき前を通ったとき、フロントバンパーに真新しい大きな傷が入っていて、ナンバープレートが少し歪んでいることに気づいた。
ナンバープレートから持ち主を照会すると、当然河田の耳に入る。朝の七時半に『すぐ移動します』と持ち主が言ったにも関わらず、その車が昼前まで停められていて、さらに悪いことに、前部には何かと衝突した新しい跡がある。白戸は宙を仰いだ。朝の時点で、ナンバープレートを照会しなかった。事実を整理するより前に、言い訳を考えておいた方がいい気がした。
転校初日、『巻田翔平です』という言葉に続けた、皆が知る大都市の名前。その日から一週間ほど、翔平は大都市がどんな感じなのかということを、クラスの同級生から訊かれ続けた。数か月前のことで、父親である勝俊は、翔平の学校のスケジュールに合わせて引っ越しを決めたと、胸を張っていた。母親の圭織も、『ちょうど学年が入れ替わる時期がいいでしょ』と言って笑っていたが、実際には、翔平が一番したくなかったのは、引っ越しそのものだった。ただ、引っ越すという前提だけは揺るがないらしく、勝俊も圭織も、海に面した半島での新生活を待ちきれない様子だった。
翔平にとって、勝俊が父親として家で過ごしている姿の、最も古い記憶は、二年前の正月だった。それまで、勝俊はずっと休みなしで働いていた。翔平は、圭織から色々な写真を見せてもらっていたが、日本で撮られたものはほとんどなく、海外の景色をバックに、細身のスーツに身を包んだ目つきの鋭い男が収まる写真が、大半だった。そうやって、『紙芝居のコマ』のように、定期的に送られてくる写真の中で生きている男が、翔平の知る『父親』だった。
自分の父親が、ほとんど肉食動物のように周りの人間を食い尽くして、証券マンのトップに登り詰めた『超人』だということを翔平が知ったのも、勝俊が仕事を辞めて、しばらくが経ってからのことだった。引っ越す前は、高級車が家にあるわけでもなく、特に大きな家でもなかった。ただ、巻田家には、勝俊が死ぬ気で稼いだ、今後何もしなくても暮らしていけるような『資金』があり、引っ越し先に買った家は大きく、車庫には勝俊が昔から好きだった七十年型のシボレーカマロRSと、家族で出かけるときに使うアルファードが置いてある。圭織は、引っ越しする理由として『都会は物に囲まれてて、疲れちゃうでしょ』と翔平に語ったが、引っ越し先でも、巻田家は相変らず、物に囲まれていた。この土地に住む人たちとは、違って。そう翔平が強く意識するのに、一か月もかからなかった。誰もスマートフォンどころか、携帯電話すら持っていない。遊ぶとなれば、海で泳いだり、がたがたの砂利道を自転車でジャンプしたり、翔平にとっては完全に別世界だった。町で見かける車は、大半が底から錆びて茶色になっていて、綺麗にしている家の車が逆に、場違いに見えたぐらいだった。
翔平は林の中を引き返しながら、頭の中で、『場違い』と呟いた。勝俊が持ってきた本を読んでいて、その表現を覚えた。それは、ここに引っ越してきた巻田家そのものだった。そして、周りがそう思っているということも、よく理解できていた。子供の話が親に筒抜けになるように、親が話したことも、子供の口を通して隙なく伝わっていた。その中でも、翔平の頭に残った言葉が、いくつかあった。
例えば、『親は、ヤクザみたいな怖い人なのかな』という、出席番号七番、木戸綾香の言葉。
他には、『あいつの家の、昆虫みたいな顔のうるさい車、見た?』という、出席番号十一番、佐近凌空の言葉。
自分に直接言ってくれれば、ちゃんと自分の言葉で答えるのにと、翔平はいつも思っていた。木戸には、『元証券マンだよ』と答えることができたし、佐近の意見には『自分も同じことを思っていた』と共感できた。でもみんなは、本人に答えを訊くことなく、宙に向かって質問して、勝手に答えを決めている。そんな中で、翔平を容赦なく突き刺した言葉が、一つだけあった。
『ふらふらしてる』
それは翔平自身の、巻田家に対しての評価そのものだった。突然人生を模様替えして、ここに引っ越した目的も、あるのかどうかすら分からない。どうしてそんなことを超能力者のように見抜かれたのか、翔平には分からなかった。ただ、自分の親も含めて、部屋の中から居間まで全部を見通されたように感じて、その日は家に帰っても、自分が立っている場所だけが、切り離されたように感じた。自分の部屋が、外と中を隔てる新しい玄関になったようだった。部屋に入ると、その感覚はベッドの中までついてきた。
出席番号十三番、隅谷正人。
両親は地元の人で、両方とも若い。勝俊と圭織は仲良くしていて、今日は海の家の設置を手伝うと言っていた。正人は学校でも無口なタイプで、何かあっても誰にも言わないことが多い。親が仲良くしているからこそ、誰にも見られないところで作られた正人とのいびつな力関係は、翔平にとっては、余計に滑稽に感じた。