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天空の庭はいつも晴れている 第10章 囚われの野

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 舟が進むにつれ、岸辺を歩く人の姿が見えるようになった。それは霧のはざまにもおぼろげな影だったり、姿形もはっきりしないものも多かった。目だけがぎょろんとついた人型の白い霧の塊が近づいて来た時は、アニスが怖がって動いたため、揺れた舟がひっくりかえりそうになった。
「あっちへお行き!」ヴィセトワが追い払い、それはすーっと離れて行った。
「あれは死んだ人なんですか?」
 アニスがたずねると、ヴィセトワはそうよ、と答えた。
「ここは『橋』が近いからね。船着き場にあがるといっぱいいるわよ。当たり前だけどね、冥界の入口なんだから」
 間もなく船着き場が見えてきた。アシやアヤメが茂る中に、石を組んで作った桟橋がある。ヴィセトワはそこへ舟をつけた。
「あたしはここまでしか案内できないわ。でも、ユフェリは危ないところってほとんどないから大丈夫。ただ、『囚われの野』に入る時はちょっと気をつけて。影響を受けてしまうことがあるから。でも、慣れた人がいるから、心配はしないけど」
 二人は彼女に礼を言って船から上がった。小さな舟はすべるようにゆっくりと桟橋《さんばし》を離れて帰って行った。

 前方に橋が見えた。石造りの大きな橋だ。たくさんの人が橋を渡って対岸へ向かう。
 そのそばには茶店があり、何人かの客が談笑しながらお茶を飲んでいた。
 茶店の前を通る道は一方は橋へ、一方は市場の中を貫いて、ずっと向こうの方で森の中へ続いていた。森の中からはたくさんの人がこちらに向かってくるのが見えた。
青白い顔の若い娘がいた。溺れ死んだのだろうか、全身ずぶ濡れの男が腕を抱えて歩いていく。赤ちゃんをおぶった母親。
 みんないわゆる『幽霊』なのだが、あまり気持ち悪くないなとアニスは思った。今の自分が同類みたいなものだからだろうか。
「市場……見に行く?」
「いいですか」
「まるでおのぼりさんだね」
 ルシャデールが冷やかすように言い、アニスは顔を赤くしたが、その響きにどこか楽しそうなものを感じて、手を差し出した。
「行こうよ」
 ルシャデールは仕方ない、といった表情で手をつないだ。
「こんなとこで迷子になられても困るしね」
 橋を目指す人々とぶつからないようにすれ違いながら、歩いていく。うっかりすると、彼らはアニスの体をすり抜けていくのだ。その度にギョッとしてしまい、あまり気分のいいものではない。ルシャデールの方はと見れば、すり抜けられても平然としていた。慣れているのだろう。
 アニスはあたりを見回す。茶店、絨毯屋、真鍮屋、陶器屋、スパイス屋、金銀宝石の装飾品を並べた店、魚のフライやサンドイッチ、ジュースなどの屋台もあった。向こうの世界とあまり変わらない風景だ。
 ただ、荷車や荷を運ぶ牛やロバはいない。客も死んだ人間ばかりのせいか、向こうの市場のように雑多なものが入り混じる活気はなかった。
「何売っているのかな」
 大きな紙を広げて売っている店がある。絵のようなものが描いてあるようだ。
「あれは地図屋だよ」ルシャデールが言った。
 地図と聞いてアニスの心がひょん、と飛び跳ねる。多くの男の子がそうであるように、彼も地図が大好きだった。村にいた頃は他の子供たちと宝の地図を作って遊んだものだった。山深い村では羊皮紙や紙は貴重品で手に入らないから、樹の皮を大きくはいで、細く削った木炭で描いたのだ。
 地図屋の店先に並べられている地図は羊皮紙製で、ほとんどは黒いインクでユフェリを描いたものだ。しかし、中には絵の具で彩色し、金や銀の額に入れた豪華なものもある。
「あ……」
 アニスが見つけたのは一枚の地図だった。その地図だけ木の皮でできている。描かれているのは他の地図と同じだ。ただ、書き込まれた文字が懐かしい記憶を呼び起こす。アニスは地図屋の主人に声をかけた。
「おじさん、この地図は……?」
「ああ、それかい? それは男の人が持って来たのさ」
 地図屋は二人の姿を認めて、おや?という顔をした。
「黒い髪の男の子と枯草色の髪の女の子が来たら、渡してやってくれってね。どうやら君たちのことらしい。はい、これ」
 地図屋は壁に飾られていたそれを取ると、アニスに差し出した。
「僕、お金を持っていません」
 それを聞いて地図屋は笑った。
「坊や、ここでは『ありがとう』の言葉がお金の代わりなのさ」
 アニスはほっとして地図を受け取った。
「ありがとう、おじさん」
 地図屋を出てから、その地図は何かあるのかと、ルシャデールがたずねた。
「この字は父さんの字に似ている。父さんも子供の時、地図が好きだったって話していた。父さんの家には、玄関に大きな地図が飾られていて、それを眺めるのが好きだったって言ってた」
「おまえの父さん、いい家の子だったんだ。普通の家じゃ地図なんて飾らないだろう。それに字も書けたようだし」
「うーん、わからない。昔の話なんてほとんど話してくれたことないから」
 アニスは手元の地図に視線を落とした。イルカのいた海やクホーンと会った草原、運河や橋が載っている。橋の先は三つの道があるようだ。階段と川と陸路。その先には『囚われの野』と書かれていた。分かれ道が何本もある。隅には『シリンデ』と書かれているが、意味はわからない。『囚われの野』の先にようやく『天空の庭』がある。
 地図屋の向かいは絨毯屋だ。
「こっちの世界で絨毯って……何をするの?」アニスは連れの少女にたずねた。
「ここで絨毯と言えば、空飛ぶ絨毯に決まってるよ」ルシャデールはそんなこと常識じゃないか、という口調だ。
「何に使うの?」アニスは言ってから、間抜けなことを聞いたと後悔した。空飛ぶ絨毯だから、空を飛ぶに決まっている。だが、ルシャデールは彼の質問の意味を理解してくれた。
「お遊び用だよ。私たちみたいに生きている人間が来る場合のね。あれで好きなところを見物して歩くのさ」
 楽器屋の前では楽師らしい老人がシタールを手にとって音を確かめていた。
 本屋に並べられていたのは、紺地のビロードに紅い糸で刺繍を施した美しい装丁の本だった。しかし、中は何も書かれていない。
「日記かな?」アニスはつぶやいた。
「似たようなものよ」本屋の女主人が答えた。「自分の一代記を書きたい人用。『庭』についたら時間は有り余るほどあるから、そこでどんな人生を送ったか、思い起こしながら書くの。生まれる前に計画したようにできたか、できなかったところは次に生まれ変わった時の課題として持越し。でも、あなたはまだいらないようね」
はい、とうなずいてアニスは本屋から離れた。

 橋の周辺では幼い子供も多かった。そのせいか、おもちゃ屋やお菓子屋も目立つ。おもちゃ屋には抱き人形や小さな剣、弓矢、木馬もある。しかし、おもちゃ屋で立ち止まる子供は少なく、死に分かれた親を探して泣く姿がしばしば見られた。
「ああいう子はどうなるの?」
 亡くなった妹を思い出して、アニスは切なくなる。
「ちゃんと乳母係がいるんだ。ほら、白い服にピンクのエプロンをした女がいるよ」
 言われて見ると、道のところどころにそういった女性たちが小さな子を連れて歩いている。
「あの人たちは小さな子を橋の向こうへ案内する係?」
「そう」