【三題噺】お題「星月夜、橙、体育館」
橙の空は嫌いだ。
一番仲良しだと思っていた友達に裏切られた時も、大切な飼い猫が居なくなってしまった時も、両親に離婚するからと告げられた時も――いつも空は鮮やかな橙色に染まっていた。今だって、泥だらけの制服とぐしゃぐしゃの髪型で、最低な気分のまま中学校の体育館の陰へうずくまっている自分を、橙の空は見下ろしている。
(……綺麗な夕焼けの翌日は晴れるんだっけ)
考えて、でもすぐに考えたことを後悔しながら、どす黒いあざと擦り傷だらけの両膝を抱え直した。
明日。明日の事なんてどうでもいい。明日が来たって、地面にばらまかれたびしょ濡れの教科書達は綺麗にならない。一度トイレに突っ込まれたカバンも、トイレの水をかけられた制服も、今日のうちに自分の手で綺麗に洗わなければならないのだ。明日さえ来なければ何もする必要がなくていいのにと、何度思ったことか。
そして何より嫌なのが、拾い集め、洗い、乾かす……もう日常の一部に組み込まれてしまったそれらを行う時だ。
いつも頭の中で、沢山の哄笑が渦を巻く。男子の声も女子の声もまぜこぜになった、ただただ不快な音が、自分の奥深くまで蹂躙してズタズタにしていくのだ。この感覚だけはいつまで経っても慣れない。いや、慣れたつもりになっていても――その都度繰り返す過呼吸で、自分に嘘をついて誤魔化していただけなのだと思い知らされる。終わりの無い責め苦だ。
(馬鹿らしい……)
何に対してかも分からない言葉を胸中で独りごちて、暗い地面に目を落とす。どうせ何も変わらないのなら、いっそ今日はここで一晩明かしてみようか――そんな事を考え始めた時だった。
「およ。先客さまでしたかー?」
能天気な調子の声が降ってきた。
気がつくと側に立っていたすらりとした脚を辿り、スカートのひだをなぞるように視線を上げていくと、セミロングの髪の少女が目をぱちくりしてこちらを見下ろしていた。ギリギリ目が見えるかどうかまで伸びた、明らかに風紀違反な前髪を指先でさっさと整えて小首をかしげる。
「先客さま、あの、えっとですね」
「…………私、先客さまなんて名前じゃないけど」
あまりに挙動不審な様子につい応えてしまう。と、彼女は至極驚いたと言わんばかりに大きく目を見開いた。
「おぉ? しかしその、えーと小生は、そちらさまのお名前は預かり知らぬでごわすので」
「なんでそんな変なしゃべりしてんの……」
「えっ。これが世間のスタンダードなのでは」
「それがスタンダードとか言ったら、スタンダードって言葉を最初に使った人から怒られるよ。誰か知らないけど」
少女は頭をガシガシ掻いて、目の前にぺたんと腰を下ろす。
「あいやー、かたじけない。何せ誰かと話すのはとんと久しぶりで」
照れているのか、恥ずかしがっているのか。薄闇の中で頬が赤らんでいるのが見てとれた。
しかし、これ以上会話に付き合う義理も気力もない。黙って目を細め――早くどっかに行け――威圧を試みる。が。
無言の圧力など無力極まりなく、むしろ笑顔で饒舌に言葉を継いできた。
「えー、では花子さんとお呼び」
「しないで」
「じゃあ節子」
「ドロップ、鼻に詰めるわよ」
「そんな芸をお持ちで!?」
「どうして私が詰める話になってんのよ、あんたの鼻に詰めるって言ってんの!」
胸ぐら掴みたい衝動を押さえる為、拳を作った両手をぶんぶん上下に振って抗議すると、彼女はふむふむと呟きながら辺りへ視線をさ迷わせ――不意に、ああ、と明るく笑った。
「キザキ・ヒカリさん、なのですな」
「…………っ」
正しく――本当に正しくフルネームで呼ばれ、反射的に身体が強張る。この中学校に入って間もない頃から、フルネームで呼ばれるのは哄笑を浴びせられる前触れでしかなかったからだ。
固く閉じようとする唇を強引にこじ開けて、無理やり喉を震わせる。
「なん、で……名前……」
すると彼女は地面に散らばる教科書を指差し、
「教科書にローマ字で書いてござりましたので。ははは、私の悪筆と違い、とても読みやすい字で羨ましゅう限り」
その指した指と中指を自分の胸ポケットへ差し入れると、二本の指で長方形のカードを取り出した。
「筆記具を持つと勝手に手が震えてしまうゆえ文字が書けず、全部印刷で味気もないざんすが。はい、どうぞー」
差し出されたのは名刺だった。
筆記体のローマ字で印刷されていた『クヌギ・ミア』は彼女の名前だろう。その名前の上には、『自由天文部・部長』と小さく書かれている。
「自由……?」
彼女――クヌギさんは、えへへ、と笑ってくねくね身体をよじる。
「はいー。それがし、入学したはいいけども、まともに通学できておらずですねぇ。一人で気ままーに天文部っぽい活動などやっているのです」
「それ部活って言わないんじゃ」
「いやいや! ちゃーんとこうして校内に入って天体観測しており」
「不法侵入って言うんだと思うけど」
「………………」
くねくねがぴたりと止まり、校内の何処かから聞こえてくるひぐらしの鳴き声が辺り一帯を支配する。こんなにひぐらしの声をじっくり聞いたのはいつぶりだろう……と思い出を徐々に遡りかけたが、その前にクヌギさんの硬直が一気に溶け、驚愕の表情で頭を抱えた。
「…………はぅあっ!? 本当ですなりな!?」
「気づかなかったんだ……」
とはいえ、学校にもセキュリティというものがある。とっくに生徒も教師も退散した学校へ出入りしてセキュリティ会社に通報がいかないのなら、実は裏でちゃんと学校に許可をとっているのかもしれない。
ともあれ。彼女自身が知らないことを自分が詮索しても意味はないだろう。制服が濡れている為にやり場のない名刺をつまんで持ったまま、体育館の壁にもたれた。
「で、何? 観測?」
「はいー。ですゆえにですね」
名刺を持つ手を、両手で包むようにがっちりと握られる。
「ぜひ、ヒカリさんも一緒に!」
「………………え?」
全く予想していなかった展開に、返す言葉を失った。こんな時間にこんな所で一人うずくまる女に声をかけるだけにとどまらず、天体を一緒に見ようと誘いかけるなんて。さすがに変人を極めすぎではないだろうか。
「い、いやあのさ。ちょっと」
「ご不満で!?」
「不満とかじゃなくて……んー……」
事態の確認を含め、言葉にすべき事はあった。
自分の無様な格好と傷だらけの理由、カバンと中身が散らばっている状況……そしてそんな自分に関わってしまう事の重大さ。それらを本当に解っているのかと。
しかし、どれも口に出そうと思うと――ひどく陳腐な気がして。自分自身がとんでもない醜態を晒そうとしているような気になってきた。
結局考えあぐねて、適当に言葉を濁しながら視線をさ迷わせていると、こちらに向けられていたキラキラとした瞳がはたと怪訝な色をのぞかせた。
「……もしや、どこかに角かトゲでも生えてそうろう?」
「生・え・て・な・い・よ!?」
手は拘束されている為に力説しか出来ることがなかったが、クヌギさんはにぱっと笑顔を咲かせた。
一番仲良しだと思っていた友達に裏切られた時も、大切な飼い猫が居なくなってしまった時も、両親に離婚するからと告げられた時も――いつも空は鮮やかな橙色に染まっていた。今だって、泥だらけの制服とぐしゃぐしゃの髪型で、最低な気分のまま中学校の体育館の陰へうずくまっている自分を、橙の空は見下ろしている。
(……綺麗な夕焼けの翌日は晴れるんだっけ)
考えて、でもすぐに考えたことを後悔しながら、どす黒いあざと擦り傷だらけの両膝を抱え直した。
明日。明日の事なんてどうでもいい。明日が来たって、地面にばらまかれたびしょ濡れの教科書達は綺麗にならない。一度トイレに突っ込まれたカバンも、トイレの水をかけられた制服も、今日のうちに自分の手で綺麗に洗わなければならないのだ。明日さえ来なければ何もする必要がなくていいのにと、何度思ったことか。
そして何より嫌なのが、拾い集め、洗い、乾かす……もう日常の一部に組み込まれてしまったそれらを行う時だ。
いつも頭の中で、沢山の哄笑が渦を巻く。男子の声も女子の声もまぜこぜになった、ただただ不快な音が、自分の奥深くまで蹂躙してズタズタにしていくのだ。この感覚だけはいつまで経っても慣れない。いや、慣れたつもりになっていても――その都度繰り返す過呼吸で、自分に嘘をついて誤魔化していただけなのだと思い知らされる。終わりの無い責め苦だ。
(馬鹿らしい……)
何に対してかも分からない言葉を胸中で独りごちて、暗い地面に目を落とす。どうせ何も変わらないのなら、いっそ今日はここで一晩明かしてみようか――そんな事を考え始めた時だった。
「およ。先客さまでしたかー?」
能天気な調子の声が降ってきた。
気がつくと側に立っていたすらりとした脚を辿り、スカートのひだをなぞるように視線を上げていくと、セミロングの髪の少女が目をぱちくりしてこちらを見下ろしていた。ギリギリ目が見えるかどうかまで伸びた、明らかに風紀違反な前髪を指先でさっさと整えて小首をかしげる。
「先客さま、あの、えっとですね」
「…………私、先客さまなんて名前じゃないけど」
あまりに挙動不審な様子につい応えてしまう。と、彼女は至極驚いたと言わんばかりに大きく目を見開いた。
「おぉ? しかしその、えーと小生は、そちらさまのお名前は預かり知らぬでごわすので」
「なんでそんな変なしゃべりしてんの……」
「えっ。これが世間のスタンダードなのでは」
「それがスタンダードとか言ったら、スタンダードって言葉を最初に使った人から怒られるよ。誰か知らないけど」
少女は頭をガシガシ掻いて、目の前にぺたんと腰を下ろす。
「あいやー、かたじけない。何せ誰かと話すのはとんと久しぶりで」
照れているのか、恥ずかしがっているのか。薄闇の中で頬が赤らんでいるのが見てとれた。
しかし、これ以上会話に付き合う義理も気力もない。黙って目を細め――早くどっかに行け――威圧を試みる。が。
無言の圧力など無力極まりなく、むしろ笑顔で饒舌に言葉を継いできた。
「えー、では花子さんとお呼び」
「しないで」
「じゃあ節子」
「ドロップ、鼻に詰めるわよ」
「そんな芸をお持ちで!?」
「どうして私が詰める話になってんのよ、あんたの鼻に詰めるって言ってんの!」
胸ぐら掴みたい衝動を押さえる為、拳を作った両手をぶんぶん上下に振って抗議すると、彼女はふむふむと呟きながら辺りへ視線をさ迷わせ――不意に、ああ、と明るく笑った。
「キザキ・ヒカリさん、なのですな」
「…………っ」
正しく――本当に正しくフルネームで呼ばれ、反射的に身体が強張る。この中学校に入って間もない頃から、フルネームで呼ばれるのは哄笑を浴びせられる前触れでしかなかったからだ。
固く閉じようとする唇を強引にこじ開けて、無理やり喉を震わせる。
「なん、で……名前……」
すると彼女は地面に散らばる教科書を指差し、
「教科書にローマ字で書いてござりましたので。ははは、私の悪筆と違い、とても読みやすい字で羨ましゅう限り」
その指した指と中指を自分の胸ポケットへ差し入れると、二本の指で長方形のカードを取り出した。
「筆記具を持つと勝手に手が震えてしまうゆえ文字が書けず、全部印刷で味気もないざんすが。はい、どうぞー」
差し出されたのは名刺だった。
筆記体のローマ字で印刷されていた『クヌギ・ミア』は彼女の名前だろう。その名前の上には、『自由天文部・部長』と小さく書かれている。
「自由……?」
彼女――クヌギさんは、えへへ、と笑ってくねくね身体をよじる。
「はいー。それがし、入学したはいいけども、まともに通学できておらずですねぇ。一人で気ままーに天文部っぽい活動などやっているのです」
「それ部活って言わないんじゃ」
「いやいや! ちゃーんとこうして校内に入って天体観測しており」
「不法侵入って言うんだと思うけど」
「………………」
くねくねがぴたりと止まり、校内の何処かから聞こえてくるひぐらしの鳴き声が辺り一帯を支配する。こんなにひぐらしの声をじっくり聞いたのはいつぶりだろう……と思い出を徐々に遡りかけたが、その前にクヌギさんの硬直が一気に溶け、驚愕の表情で頭を抱えた。
「…………はぅあっ!? 本当ですなりな!?」
「気づかなかったんだ……」
とはいえ、学校にもセキュリティというものがある。とっくに生徒も教師も退散した学校へ出入りしてセキュリティ会社に通報がいかないのなら、実は裏でちゃんと学校に許可をとっているのかもしれない。
ともあれ。彼女自身が知らないことを自分が詮索しても意味はないだろう。制服が濡れている為にやり場のない名刺をつまんで持ったまま、体育館の壁にもたれた。
「で、何? 観測?」
「はいー。ですゆえにですね」
名刺を持つ手を、両手で包むようにがっちりと握られる。
「ぜひ、ヒカリさんも一緒に!」
「………………え?」
全く予想していなかった展開に、返す言葉を失った。こんな時間にこんな所で一人うずくまる女に声をかけるだけにとどまらず、天体を一緒に見ようと誘いかけるなんて。さすがに変人を極めすぎではないだろうか。
「い、いやあのさ。ちょっと」
「ご不満で!?」
「不満とかじゃなくて……んー……」
事態の確認を含め、言葉にすべき事はあった。
自分の無様な格好と傷だらけの理由、カバンと中身が散らばっている状況……そしてそんな自分に関わってしまう事の重大さ。それらを本当に解っているのかと。
しかし、どれも口に出そうと思うと――ひどく陳腐な気がして。自分自身がとんでもない醜態を晒そうとしているような気になってきた。
結局考えあぐねて、適当に言葉を濁しながら視線をさ迷わせていると、こちらに向けられていたキラキラとした瞳がはたと怪訝な色をのぞかせた。
「……もしや、どこかに角かトゲでも生えてそうろう?」
「生・え・て・な・い・よ!?」
手は拘束されている為に力説しか出来ることがなかったが、クヌギさんはにぱっと笑顔を咲かせた。
作品名:【三題噺】お題「星月夜、橙、体育館」 作家名:水月千尋