A Heart Café
でも、恋とはそういうものではない。もっと近くに、もっと一緒にという願いは募ってゆく。
そして、少年は決意した。
手紙を渡そうと。
想いを伝えようと。
その少女は、少年とは別の学校、そして知り得る限り、少なくとも一つ以上は年下だった。だから、電車の中でしか出会える機会はなかった。
ある冬の日、少年は少女に手紙を渡した。
それまでも何度かそうしようと思い、ポケットにしまい続けた手紙を。少女の降りる駅に電車が停まる直前に。
その時、自分が何を言ったのか、少女がどう返したのかは、少年自身憶えていないほどに頭に血が上っていた。
ただ記憶にあるのは、戸惑ったような眼。そして、逃げるように電車を降りてゆく少女の後ろ姿。
少年は待った。
クリスマス、正月、新学期、そして春休み。
ついに返事はなかった。
少年たちの乗る電車は、新年度明け一月後に地下になった。
追いかけるのは、迷惑でしかない。
少年は思った。
嫌がられる存在にはなりたくないと。
それでも、同じ電車に乗り合わせてしまうこともある。
帰りに出会ってしまうこともある。
本当は、すぐにでも駆け寄って答えを聞き出したい衝動に耐えながら、少年は少女の存在から意識を逸らせた。
そんな日々が続いた。
少年は、自らの想いを言葉に綴り、詩を書いた。届かぬ想い、その切なさを閉じ込めておくには、その心はあまりにも脆すぎた。少しでも気を紛らわせられるようなことがあれば、何でもやった。
確かに、その時だけは楽しかった。
でも、それだけだった。
少女への想いは、他の何ものによっても代用できなかった。
無理に誰かを好きになろうともした。偽りの恋心でごまかそうともした。それ自体、成功していればよかったのかも知れない。でも、全ては唾棄されてしまった。
残されたのは、自分は誰にも愛されないという事実だけだった。
少年は、その名も知れぬ少女への恋情だけに|縋《すが》った。誰かを愛する心を失いたくなかった。それは、自身の存在理由に関わることだったから。
人は、誰かを愛するために、そして愛されるために生まれてくる。その信念こそ、少年が生きている理由だったから。
出会ってしまう度に、哀しそうな眼をする少女。少年はそれを見たくなかった。
自分には出来なくとも、少女がしあわせになってくれることを心の底から願った。
だから、少年は、少女の前から去った。
だが、運命はあまりにも残酷だった。
まるで忘れることすら許さぬように、少女の通う学校近くの事務所に配属された。
少年は青年に、少女は大人になっていた。
駅前の事務所。それはもう、呪いのようなものだった。嫌でも毎日、その少女に出会ってしまう。
そのどこにもやり場のない思いに苛まれ、また数年が過ぎた。
その間、少年は幾つも詩を書き、お話を書き、そして絵を描いた。充たされぬ思いを、白い紙面を前に語り続けた。
届かぬ想いを、言葉に載せながら。
その哀しみを、色に移しながら。
かつての少女は、大学卒業後、突然にいなくなった。
もう、電車の中で見かけることもなくなった。
それと同時に、かつての少年は全ての心と言葉を失った。
残されたのは、叶わぬ想い。
そして、意味を喪った言葉。
「それは……」
私は言おうとした。
店主が首を振る。
「幾らでも、解釈はできます」
私は、黙って頷く。
少年の寄せる想い。
そして、おそらく少女が感じていたものに思いを馳せる。
「時が心を癒す」
店主が言う。「でも、時が停まったままでは、癒されることはない」
「……」
「あなたは、前に進もうとしている。だから、今のご自分に不安を抱くことができる」
「そう……なんでしょうか……?」
「少年は、ただ哀しみを全て背負うことだけで、問題を解決しようとした。でも、それが正しかったのかどうか……」
「どうして、こんなお話を私に……?」
「さっきも言ったでしょう? 心が空っぽならば、代わりのもので満たすこともできると。応急処置でしかありませんが」
「いえ……」
「あなたは、どう思われますか……?」
「何を……ですか?」
「その少年の想いが、無駄だったとは思いますか?」
「……」
「あなたは、あなたのしていることに価値があるのかどうか、あなたのしていることが間違っているのではないかと悩んでいる。そうなのではないですか?」
私は返す言葉もなく、カップの中の褐色の液体に目を落とす。
「私は――」
店主が言う。「少年は、最後までそれを無価値だと思わなかったと、私は信じます。なぜなら、彼はそこに本当の愛を見出していたから。彼はただそうしたかったから、そうしただけであって、それ以外の理由などなかったのでしょう」
「……かも、知れないですね……」
そうとしか、言いようがなかった。
私には、そんな恋愛経験もないし、告白されたこともしたこともなかったから。
「少年は、不幸だったと思いますか?」
「……分かりません」
「見方によっては不幸なのかも知れません。でも、最後まで、愛することを貫き通せたならば、本人にとっては必ずしも不幸だとは言えないでしょう」
「そんな……ものなんでしょうか」
「あなたは、ご自分の好きなことを諦められますか?」
「それは……」
すぐ横に置かれたカメラを見る。
「写真が、お好きなんですね」
「ええ……まあ……」
でも、言われて気がついた。
好き。
そう、私は写真を撮るのが好きだっていうことを。
「どうして、写真が好きなのでしょう?」
「……よく、分かりません」
「でも、好きなんですよね?」
「ええ。はい……」
「それで、いいのではないでしょうか」
「でも、やっぱり……」
「あなたの好きを、誰も評価できません」
「そう……ですね」
「ならば、あなたの為すべきことは自ずと明らかでしょう」
店主が、カメラの方を向く。「写真は、真実を写すと言います。あなたの撮る写真が真実なら、それはあなたの鏡であってあなた自身。ただ、それをどう受け止めるかも、あなたです」
いつの間にか、店内には少し違った香りが漂っていた。
「名前は、ありません」
店主が新しいカップを、私の前に置く。
甘い香り。
一口、ほんの一口。
甘酸っぱく、そして苦い。
それでいて深く、深く。
味と香りに飲み込まれてゆくような……
「不思議な味です」
私は言った。
「でしょう?」
店主が微笑む。「コーヒーもお茶も、その時の気分を演出してくれます。それがマッチしたとき、秘めた想いとのシンクロが起きるのです」
私はゆっくりと、まるでストローで飲むような感じでカップのコーヒーを味わった。
初めての味、初めての香り、そして――
今後、一生味わえないであろう甘くて深い……
店主が、レコードを取り換える。
「これを」
そう言って。
静かに、背中を押されるような暖かなメロディ。
黙って、店主がレコード・ジャケットを差し出す。
――あなたの道を――
そう書かれていた。
「あなたは、間違っていませんよ」
店主が言う。「あなたが、ご自身を諦めない限り」
「はい」
「では、もう一杯」
店主の手つき。
作品名:A Heart Café 作家名:泉絵師 遙夏