A Heart Café
読んでいた本を置いて、私はため息をついた。
飲みかけのコーヒーに手を伸ばす。
もうすっかり冷めていて、苦みだけが際立つ。
空になったカップをソーサーに戻し、私はまたため息をつく。
私、何をやってるんだろう――
この店に入ってから、すでに2時間は過ぎている。
何かを待っているのか。
そうではない。
ただ――
店の名は「Mon Amour《モナムール》」と言った。
撮影の帰り、時間があったために軽く食事をしようと、たまたま入った店。田舎の谷あいにはそぐわないような瀟洒なカフェ。窓際の席ではなく、なぜかカウンター席に座った。普段は誰にも邪魔されたくなくて、隅っこの窓際に座るのに、なぜか。
時間も中途半端だったから、サンドイッチのセットにした。
撮った写真をチェックしてゆく。
本来撮影は車移動が基本だと言われるけど、私は歩いて回る。
その方が些細なものにでも気づけるし、いつでも思い立った時にカメラを構えることが出来る。そして何より、どこを撮っても邪魔な車が入らない。
今日の撮影は、廃線が噂される地方鉄道だった。
依頼を受けたわけでもなく、仕事と言えば仕事だし、趣味と言えば趣味。
失われてゆく景色、鉄道のある、道のある風景が好きで、お金の許す限りあちこち飛び回っているフリーの写真家、それが私。
データを落とすのは帰ってからでも、戻りの夜行の中でもできる。
それに、この近くを走る鉄道も、次の便までは3時間以上あった。
だから、のんびりしようと思った。
それだけ。
初老の店主は無口だった。
ただ黙って注文を受け、私の前に置いただけ。
私も、何も話さなかった。
正直、ちょっと疲れていた。
やっと開くことができた個展も振るわず、写真集も売れなかった。誰もに道楽と言われ、落ち込んでいた。だから、今回の撮影は、仕事というよりも原点に戻りたかったというか、私が本当に写真を続けていいのかを考えたかったのが目的だったのかも知れない。
だから、持って来ていた本を読んでいた。写真とは全く関係ない本を。
私はいつも、撮影旅行の時は新しい本を持って行くことにしている。
今はコーヒーを二回お代わりして、3杯目を飲み終えたところ。
店主がカウンター越しにカップを下げようとする。
「あの……」
もう一杯、お代わりを頼もうと思った。
「同じので?」
「はい」
「何か、お悩みでも?」
「……」
やっぱり、ため息を聞かれていたか。
そう思った。
「気に入って頂けたら、光栄です」
ややあってから、店主は新しいカップにコーヒーを満たしてくれた。
「香りは心を癒してくれます」
陶器の触れ合う心地よい音。
砂糖もミルクも落とさず、その香りを愉しむ。
そう言えば、暇つぶし以外でコーヒーを飲むのはこれが初めてだった。
でも――
さっきまでと香りが違う。
コーヒーの香りなのは分かる。
でも、苦味が少しだけ強いような……
「あの――」
「ハートブレンドですよ」
「はぁ……」
「あなたの気持ちに添えるといいのですが……」
一口啜ってみる。
ああ……
コーヒーって、こんな味だったっけ――?
「あれ……?」
涙が零れてくる。
私、どうして……
店主がナプキンを差し出してくれる。
私はそれで涙を拭いた。
「哀しいことでも、あったのでしょうか」
店主が訊いてくる。
「いえ、そんなわけでは……」
「そうですか。誰しも不安や迷いはあります。それは、あなたが本気で何かを追いかけている証拠です」
どうして、そんなことを……
まるで私の思いを全部知っているみたい――
でも、そんなはずはなかった。
でも――
「私……」
言ってしまっていた。「このままで、いいのかなって……」
「このままで、と言うと?」
「ええ……」
私ったら、なんでこんなことを……
でも、言葉を止めることはできなかった。
「なんだか空っぽで、これまでやってきたことが全部無駄だったようで……」
店主は黙ったままだ。
「私は何を求めたらいいのか分からなくて、何が欲しいのか分からなくて。一所懸命手を伸ばしても、そこには何もないような気がして……」
たぶん、悲しいような気もする。でも自分の感情が分からない。「何かが欲しいのに、それが何なのかが分からなくなって……。私の感性は受け入れられないのかなって思ったら、もう何も感じられなくなったみたいで……」
「そうですね……」
店主が言う。「それはきっと、あなたが新しい何かを欲している。これまでのものとは別の、知らないものを求める心がそうさせているのではないでしょうか?」
「分かりません」
「求めるものが分からない、空っぽで何かが欲しいのに、それが何かも分からない」
「……」
「満たされないなら、とりあえず代わりになるもので埋め合わせてみる。欺瞞かも知れませんが、時にはそれが功を奏することもあります」
そう言って、店主はカウンターの隅に行く。
そして棚を探るようにして一枚のレコードを取り出し、プレイヤーにセットした。
雑音混じりの、針の触れ合う音が、スピーカーから漏れる。
続いて、ピアノの旋律。
ピアノ・ソロ。
静かで、どこか懐かしい。
「これは……?」
私は訊く。
「さあ。昔、ある人が置いて行ったもので、私もよく知らないんですよ」
「見せてもらっていいですか?」
「どうぞ」
店主が、レコード・ジャケットを渡してくれる。
夕景の草原、一本の道。遠くの街影。
それだけだった、普通はあるはずのアーティスト名もない。
ただ、曲名だけ。
――ちいさな恋――
思わず口ずさんでしまいそうになる、静かなメロディ。
甘く、切なく、蕩(とろ)けてゆくような旋律。
曲は途中からフルート独奏に変わり、また同じ旋律が繰り返されてゆく。
コーヒーの味と香りに相俟って、夕焼けの写真の中に引き込まれてゆくよう。
そして、あの時の……
「こういうお話があります」
店主が言った。「ささやかでも、あなたの気持ちを満たせるのなら」
「はい……」
「気持ちに空虚さを感じるとき、仮に他の想いで満たすことも無益ではありません」
「はい……」
「では――」
店主が、空になりかけていたカップにコーヒーを注ぐ。「ここから先は、サービスですよ」
そう言って、微笑んでくれた。
「すみません」
「そうですね……」
遠くを見るような表情で、店主は語り始めた。「これは、ある少年の話です――」
少年はある日、通学の電車の中で、とある少女と出会った。
その少年は、先月までは別のルートで通学していたが、ある事情で違う経路に変えていた。
もっともそれはアルバイトのシフトのせいで値上げ前に定期券を買えなかっただけで、値上げ分のお金が足りなかったという理由だった。
少年は、一目でその少女に恋をした。それこそ、その少女こそ世界の全てであるかのように思えるほど。
少年は、その少女に出逢えたことに心の底から感謝した。
毎日同じ時刻、同じ電車。
乗る扉も同じ。
なぜなら、乗り換えに一番便利だから。
少年は幸せだった。
ただ毎日出会えるだけで。
飲みかけのコーヒーに手を伸ばす。
もうすっかり冷めていて、苦みだけが際立つ。
空になったカップをソーサーに戻し、私はまたため息をつく。
私、何をやってるんだろう――
この店に入ってから、すでに2時間は過ぎている。
何かを待っているのか。
そうではない。
ただ――
店の名は「Mon Amour《モナムール》」と言った。
撮影の帰り、時間があったために軽く食事をしようと、たまたま入った店。田舎の谷あいにはそぐわないような瀟洒なカフェ。窓際の席ではなく、なぜかカウンター席に座った。普段は誰にも邪魔されたくなくて、隅っこの窓際に座るのに、なぜか。
時間も中途半端だったから、サンドイッチのセットにした。
撮った写真をチェックしてゆく。
本来撮影は車移動が基本だと言われるけど、私は歩いて回る。
その方が些細なものにでも気づけるし、いつでも思い立った時にカメラを構えることが出来る。そして何より、どこを撮っても邪魔な車が入らない。
今日の撮影は、廃線が噂される地方鉄道だった。
依頼を受けたわけでもなく、仕事と言えば仕事だし、趣味と言えば趣味。
失われてゆく景色、鉄道のある、道のある風景が好きで、お金の許す限りあちこち飛び回っているフリーの写真家、それが私。
データを落とすのは帰ってからでも、戻りの夜行の中でもできる。
それに、この近くを走る鉄道も、次の便までは3時間以上あった。
だから、のんびりしようと思った。
それだけ。
初老の店主は無口だった。
ただ黙って注文を受け、私の前に置いただけ。
私も、何も話さなかった。
正直、ちょっと疲れていた。
やっと開くことができた個展も振るわず、写真集も売れなかった。誰もに道楽と言われ、落ち込んでいた。だから、今回の撮影は、仕事というよりも原点に戻りたかったというか、私が本当に写真を続けていいのかを考えたかったのが目的だったのかも知れない。
だから、持って来ていた本を読んでいた。写真とは全く関係ない本を。
私はいつも、撮影旅行の時は新しい本を持って行くことにしている。
今はコーヒーを二回お代わりして、3杯目を飲み終えたところ。
店主がカウンター越しにカップを下げようとする。
「あの……」
もう一杯、お代わりを頼もうと思った。
「同じので?」
「はい」
「何か、お悩みでも?」
「……」
やっぱり、ため息を聞かれていたか。
そう思った。
「気に入って頂けたら、光栄です」
ややあってから、店主は新しいカップにコーヒーを満たしてくれた。
「香りは心を癒してくれます」
陶器の触れ合う心地よい音。
砂糖もミルクも落とさず、その香りを愉しむ。
そう言えば、暇つぶし以外でコーヒーを飲むのはこれが初めてだった。
でも――
さっきまでと香りが違う。
コーヒーの香りなのは分かる。
でも、苦味が少しだけ強いような……
「あの――」
「ハートブレンドですよ」
「はぁ……」
「あなたの気持ちに添えるといいのですが……」
一口啜ってみる。
ああ……
コーヒーって、こんな味だったっけ――?
「あれ……?」
涙が零れてくる。
私、どうして……
店主がナプキンを差し出してくれる。
私はそれで涙を拭いた。
「哀しいことでも、あったのでしょうか」
店主が訊いてくる。
「いえ、そんなわけでは……」
「そうですか。誰しも不安や迷いはあります。それは、あなたが本気で何かを追いかけている証拠です」
どうして、そんなことを……
まるで私の思いを全部知っているみたい――
でも、そんなはずはなかった。
でも――
「私……」
言ってしまっていた。「このままで、いいのかなって……」
「このままで、と言うと?」
「ええ……」
私ったら、なんでこんなことを……
でも、言葉を止めることはできなかった。
「なんだか空っぽで、これまでやってきたことが全部無駄だったようで……」
店主は黙ったままだ。
「私は何を求めたらいいのか分からなくて、何が欲しいのか分からなくて。一所懸命手を伸ばしても、そこには何もないような気がして……」
たぶん、悲しいような気もする。でも自分の感情が分からない。「何かが欲しいのに、それが何なのかが分からなくなって……。私の感性は受け入れられないのかなって思ったら、もう何も感じられなくなったみたいで……」
「そうですね……」
店主が言う。「それはきっと、あなたが新しい何かを欲している。これまでのものとは別の、知らないものを求める心がそうさせているのではないでしょうか?」
「分かりません」
「求めるものが分からない、空っぽで何かが欲しいのに、それが何かも分からない」
「……」
「満たされないなら、とりあえず代わりになるもので埋め合わせてみる。欺瞞かも知れませんが、時にはそれが功を奏することもあります」
そう言って、店主はカウンターの隅に行く。
そして棚を探るようにして一枚のレコードを取り出し、プレイヤーにセットした。
雑音混じりの、針の触れ合う音が、スピーカーから漏れる。
続いて、ピアノの旋律。
ピアノ・ソロ。
静かで、どこか懐かしい。
「これは……?」
私は訊く。
「さあ。昔、ある人が置いて行ったもので、私もよく知らないんですよ」
「見せてもらっていいですか?」
「どうぞ」
店主が、レコード・ジャケットを渡してくれる。
夕景の草原、一本の道。遠くの街影。
それだけだった、普通はあるはずのアーティスト名もない。
ただ、曲名だけ。
――ちいさな恋――
思わず口ずさんでしまいそうになる、静かなメロディ。
甘く、切なく、蕩(とろ)けてゆくような旋律。
曲は途中からフルート独奏に変わり、また同じ旋律が繰り返されてゆく。
コーヒーの味と香りに相俟って、夕焼けの写真の中に引き込まれてゆくよう。
そして、あの時の……
「こういうお話があります」
店主が言った。「ささやかでも、あなたの気持ちを満たせるのなら」
「はい……」
「気持ちに空虚さを感じるとき、仮に他の想いで満たすことも無益ではありません」
「はい……」
「では――」
店主が、空になりかけていたカップにコーヒーを注ぐ。「ここから先は、サービスですよ」
そう言って、微笑んでくれた。
「すみません」
「そうですね……」
遠くを見るような表情で、店主は語り始めた。「これは、ある少年の話です――」
少年はある日、通学の電車の中で、とある少女と出会った。
その少年は、先月までは別のルートで通学していたが、ある事情で違う経路に変えていた。
もっともそれはアルバイトのシフトのせいで値上げ前に定期券を買えなかっただけで、値上げ分のお金が足りなかったという理由だった。
少年は、一目でその少女に恋をした。それこそ、その少女こそ世界の全てであるかのように思えるほど。
少年は、その少女に出逢えたことに心の底から感謝した。
毎日同じ時刻、同じ電車。
乗る扉も同じ。
なぜなら、乗り換えに一番便利だから。
少年は幸せだった。
ただ毎日出会えるだけで。
作品名:A Heart Café 作家名:泉絵師 遙夏