駅 ~Terminal~
僕は、彼の名を呼んだ。名字の方で。
彼の姓は、女の名前としても通用する。だから、わざと。
あとは、勢いだけ。もう引き返せない。
彼は私の方に来たのではなく、公衆電話に向かった。
これから何が起ころうとしているのか、恐ろしい予感がする。
今――
今、この場で声をかけなければ――
彼が受話器を上げる。少したどたどしい手つきで番号を押してゆく。
受話器を握り締めている彼の手が少し震えているのが分かる。そして、傘の柄を握る私の手はまるで蝋細工のように感覚を失くしてしまっている。
だめ。早く、今すぐ――
相手が出たようで、彼が息をつく。そして――
今夜、会えないかと、僕は友に言った。不自然にならない程度の声音で、彼女にも聞こえるように。
親友は残業中で、まだしばらくは終わりそうにないと言った。それでも待つからと僕は言う。今日は無理だと、日を改めてくれと言ってくる。僕は何度も友の名を呼び、どうしても今夜会いたいと執拗に言い募った。心の中で、友に謝りながら。
頑張れよ。信じてるからな。ただ、無理して体を壊したりするなよ。僕は最後にそう言って、受話器を戻した。
カードが返却される。急かすように電子音が虚しく響く。
終わった。
もう、これで全てが。
最後の言葉は、彼女に向けたものだった。
通話の相手。
それは女性だった。
何か必死な様子で会いたいと繰り返す彼。
どうして、今それを――?
同時に、自分自身の愚かさに笑いがこみ上げてくる。
寂しい笑い。声にならない、秘めた冷笑。
そりゃ、そうに決まっている。
あれからもう、どれほどの時が過ぎたんだろう。彼にも、付き合っている人がいるかも知れないと、なぜ考えられなかったのだろう。
彼のことなんか何も考えていなかった自分の身勝手さを思い知らされてしまった。私には、人を愛する資格なんてないのかも知れない。
そう、これで終わりにしよう。
彼には、彼の人生がある。
彼が公衆電話から離れる。来た時とは逆に、私の方へは背を向けた形で改札に帰ってゆく。
そして彼は、何事もなかったかのように仕事に戻った。
緊張が解けると、手から傘が滑り落ちた。
私は屈んでそれを拾い上げようとしたが、思った以上に手に汗をかいていて、一度はつかみ損ねてしまった。
馬鹿な私。こんなところでも失態を演じてしまうなんて。
それとなく手のひらを後ろ手に拭って、鞄の前ポケットに手を突っ込んだ。
定期入れと一緒に、紙の感触。
急行電車到着のアナウンスが流れている。
私は長い間立っていた改札前を、そっと離れた。
そう、これでいい。
改札に戻って、僕は思った。
あんな回りくどいことをしなくとも直接に言えばいいようなものだが、また逃げられでもしたら永久に伝えることは出来ないから。親友には悪いことをしたと思う。でも、そうするより他なかった。それ以外に方法はなかったのだから。
彼女が目の前を通り過ぎてゆく。こちらを見ることもなく。
予定をすっぽかされでもしたのだろうか、怒ったような表情をしている。
到着したばかりの急行電車に乗り込み、彼女は見えなくなってしまった。
電車はわずかな停車時間のあと、折り返してゆく。
僕は去ってゆく尾灯を眺めながら、遠い日に思いを馳せた。
今日くらいは、思い出に浸るのも許されるだろう。
彼女は、私の電話の相手が女だと思っているはず。それでいい。
そして、自分の人生を歩んで欲しい。もう僕のことなど忘れていい。自分自身を信じて人生を生きて欲しい。君になら出来るはず。そう僕は信じている。
扉にもたれて、窓の外を流れる景色を見ている。
鞄のポケットの中。渡しそびれた手紙。もし言葉に出来なかったらと思って書いたもの。
こんなもの、燃やしてしまおう。
もう、彼の邪魔は出来ない。
彼は、彼なりに生きている。そして、彼にはもう、いい人がいる。
私は、彼の元から去らなければいけない。
どこか遠くへ。
私の居場所を求めて。
――さようなら、ありがとう。
さよなら。お元気で――
作品名:駅 ~Terminal~ 作家名:泉絵師 遙夏