わたしの草原
5
じりじりと照りつける陽射しが、去りゆく夏を感じさせない、暑い日だった。
陰影の濃い木漏れ日の並木道は、さながらモノクロームの写真のようにも見えた。
もう、初秋と呼ばれる季節。
博物館通りは人影も少なく、ふたりの影だけが黒々と路面に落ちている。
ふたり──そう、わたしと彼。
彼は、以前から密かに憧れていたあの人だ。ちょっと年齢は離れているが、とにかく、わたしは彼を射止めたのだった。
今日は彼の提案で、美術館の特別展を見に来ていたのだった。
なにしろ暑い。冷房の効いた館内は快適だったが、展示されている作品に関しては、わたしは全くと言っていいほど無知だった。
絵を見ているとき、彼はなにも言わない。わたしを無視しているのじゃなくて、質問すれば説明もしてくれる。でも、絵は人によって見方も違ってくるから、あまり個人的に説明するのは好きじゃないのだと、彼は言っていた。
彼と付き合うようになって、まだ二ヶ月ほどしか経っていない。それでも、わたしは絵を鑑賞することに関心を持ち始めていた。
「今日のは、なかなかよかったと思う」
隣を歩いている彼に、わたしは言った。
「そうか」
彼は、それだけしか言わなかった。
「|勇馬《ゆうま》さんは、あまりよくなかったの?」
「いや。──ただ、祥子がそんなことを言うのは初めてだと思ったから」
「そう?」
「そんなに気に入ったんなら、絵はがきでも買っとくべきだったな」
彼は微笑んだ。
「ねえ、勇馬さんは絵を描かないの?」
わたしは訊いた。
「もう、描かないだろうね」
彼は、かつて美術を学んでいたのだった。
「わたしのために、一枚描いてくれる?」
「なんだい? 急に」
「いいじゃない。一度、見てみたいのよ。勇馬さんが、どんな絵を描くのか」
「くだらない絵しか描けないよ」
「くだらないかどうかは、わたしが決める」
なぜか、わたしはたまらなく彼の絵が見たくなった。絵は、それを描いた人の心を忠実に反映するという。だったら、いまの彼ならどんな絵を描くのか。ふと、そう考えたのだった。そして、かつて彼が描いた絵は、きっと寂しいものだったろうと思った。
しばらく、彼は黙っていた。
わたしが、夢の中で踏み出した一歩は、この恋なのだとあらためて感じていた。あれからわたしは、急速に彼に惹かれていった。
おそらく、自分の気持ちに素直になれとは、そういうことだったのだろう。そして、わたしはそれに従った。
あの夢の中で、わたしはぬくぬくとした草原から、新しい世界へと飛び出した。それは、わたしの中の、密かなためらいを突き破ることだったのだろう。
そしてもうひとつ、わたしが夢の中で開いた扉は、彼の心そのものだったのではないかと思っている。
なぜなら、彼は長く心を閉ざしたままだったからだ。
どういう事情があったのか、わたしには知る由もない。彼はそれを言わないし、わたしも強いて尋ねようとはしなかった。
しかし、彼はわたしに心を開いてくれた。
これはひとがどう思おうと、二人にとって、新しい世界を築いていけるということなのではないだろうか。
まあ、どんな難しいことを言ってみたところで、単なるのろけ話になってしまうのかな。
そんなことを思って、ふっと笑った。
「どうしたんだい?」
ひとりで考えにふけっているわたしに、彼が言った。
「うん。ちょっとね」
ありのままに言うわけにもいかず、わたしは言葉を濁した。
季節は、急速に秋へと向かっていた。
残暑が厳しいとはいえ、陽が傾きはじめると涼しさが忍び寄ってくる。
風が、樹々の梢を揺らして通り過ぎていった。
その風は、あきらかに秋の匂いをはらんで、わたしの心をくすぐった。
「もう、夏も終わりだね」
彼が言った。
「うん」
わたしは空を見上げた。
そこには、去りゆく夏の名残の雲が、淡い色に染まって遠く輝いていた。
遠くに視線を投げながら、わたしは彼を感じ、そして思った。
今度、わたしが夢の中で自分の世界を見るとしたなら、きっとそこには草原だけでなく、山も川も、そして森もあるだろう。
それらはすべて、これからわたしが造ってゆくのだ。道もできるかも知れない。それから町も。そして、わたしは歩き出して、まだ少しも来ていないことに気づいた。なぜなら、わたしには、まだ振り返るべき道もないのだから。
そう、すべてはこれから始まるのだ。わたしにとっては、なにもかもが、まだ始まったばかりなのだと、つくづく感じた。
《完》