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泉絵師 遙夏
泉絵師 遙夏
novelistID. 42743
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うそつき

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稲穂が揺れる。まだ実りには遠い稲穂が、風に揺れる。
 あかねトンボが群れ飛ぶ。
 私はカバンを持ち直して歩く。
 目の前を、赤いトンボが横切る。
 道の両側は田んぼ。稲が波のようにざわめく。
 私はひとり、歩く。
 お父さんとお母さんが別れた。りこんって言ってた。お父さんはお父さんじゃなくなって、もう何があってもしゃべったりしたらいけないって、お母さんに言われた。お父さんの悪いこともいっぱい聞かされた。
 私は知ってる。私と弟が寝た後にけんかしてたこと。お父さんがお母さんを殴ってたことも。だから、お父さんが悪い。だから、お母さんはりこんした。
 名前が変わった。5年生になってから、お婆ちゃんの苗字になった。急に苗字が変わったから、前のクラスで一緒だった子には色々聞かれた。
 りこんって言えなかった。言っちゃいけないって言われてたから。
 でも、いつの間にか、みんな知ってた。ててなし子って言われた。4年生のときに仲良くしてくれた子も、もう話しかけてくれなくなった。私から話しても、それとなく逃げられた。
 戻りたいよ……
 哲っちゃん、どうしてるの?
 哲ちゃん。
 お父さんとお母さんと一緒に住んでたときは、都会の真ん中だった。幼稚園からそのまま上がって4年生の二学期の最初まで、ずっと一クラスだった。哲ちゃんは、3年生の終わりに、そっと私に近寄って、秘密の話をするみたいにしながら、私のほっぺにキスした。唇じゃなかったけど、これが私のファーストキスなんだと思う。
 夏休み前に、お母さんは家を出た。ある日、学校から帰ったら、もうお母さんはいなかった。お父さんは忙しかったから、私と弟はお婆ちゃんにご飯を作ってもらった。お父さんはお仕事で忙しかった。新しいお仕事、新しいお店。何度か連れて行ってもらった。いつ行っても、お客さんがいっぱいだった。
 家では、お母さんがいなくて泣く弟を慰めてばかりいた。
 私だって寂しいのに。
 ときどきにしか会えないお母さん。お母さんは夏休みの終わりごろに言った。
「一緒に暮らそうね」
 お母さんがいない夜、弟が寝てから、私は泣いた。
 二学期が始まって初めてお母さんに会ったとき、言われた。
「いつでもいいから、こっちに来なさい。あなたが先。何とかして来なさい」
 お父さんもお母さんも、私より弟の方が好きだった。だって、男の子が欲しかったんだから、私なんか余分だって、ずっと分かってた。だから、私がいなくなってもお父さんは怒らないだろうって、分かってた。お母さんも、そう言った。弟が先だといけない理由。思い出したくない言葉。
 二学期が始まって十日くらいしたとき、私は意を決した。お母さんの所に行くって。
 その日、私は学校でこれまで通りにした。みんなとしゃべって、笑って。私がここに来るのは今日で最後だってことを隠して。ばれたらダメだから、友だちにも言うなって、お母さんが言ってたから。
 だから、哲ちゃんにも言わなかった。心の中で、何度も何度もごめんって謝って。
 バイバイ。また明日ね。
 それが最後の言葉。
 明日なんて、ないのに。
 明日になれば、私はもうここにはいないのに、笑って手を振った。
 家に帰って、お婆ちゃんに言った。
「柿が食べたい。買って来てよ」
 まだ時期じゃないって言われたけど、友だちが売ってるって言ってたよと嘘をついた。
 お婆ちゃんはしぶしぶ買い物に出た。
 弟が帰って来ると、公園に珍しいセミがいると嘘をついた。
 そうして、誰もいなくなった家から、教科書とかの勉強道具と、大事な宝ものを少しだけを持って出た。鍵は、かけてなかったと思う。鍵っ子じゃなかったから。
 誰にも見つからないように大通りに出てバスに乗った。追いかけて来られたらどうしようって何度も後ろを振り返った。下校時間をとっくに過ぎているのに、赤いランドセルと、子どもには多すぎる荷物を持った女の子がどんな風に見られてるかなんてことまでは気が回らなかった。
 家を出る前に電話していたから、バス停にはお婆ちゃんが待っていた。お母さんのお母さん。あっちのお婆ちゃんって呼んでたお婆ちゃん。お母さんは、お仕事に行ってるって、お婆ちゃんは言った。ランドセル以外の荷物は、お婆ちゃんが持ってくれた。
 お母さんの所に来て、そこで誕生日が来ても、まだ弟は来られなかった。きっと一人で寂しい思いをしていると、私は涙した。弟は、お父さんとお母さんの一番大事な子ども。私なんかと違う。お父さんは、私を返せと言ってるみたいだけど、本気なのかどうか分からない。
 全部、嘘。
 お父さんもお母さんも、私が可愛いとか言いながら、それも嘘。必死で弟を引き取ろうとしてるお母さんを見てたら分かる。私は、どっちにも要らない子。要らないから、お父さんも本気で返せって、お母さんに言わない。
 哲ちゃん、ごめんね。
 哲ちゃん、私が好きだって言ってくれたよね?
 私、はじめてだったんだよ。
 なのに、嘘ついてごめんね。
 哲ちゃんの家がどこにあるかは知ってる。電話番号も知ってた。でも、住所はわからない。電話番号は連絡網のプリントに書いてあったけど、持って来るのを忘れてた。
 他の友だちの電話番号も分からなかった。だって、毎日会えたんだし。わざわざ電話しなくても、家に行ったらよかったんだし。それだけでよかったんだし。
 10月の初め、おばさんを頼って田舎に引っ越した。小さなアパート。おばさんの家には、毎年遊びに来てたけど、こんな田舎に住むのなんて初めてだった。何もない部屋。布団と、おこた、勉強机代わりの箱。それだけ。弟はまだ来ていなかった。
 弟は、引っ越してすぐに来た。どうやって来たのかは、私にもわからない。弟は、私に嘘つきと言った。小学1年生のくせに、もの凄い目をして。私は、ごめんとしか言えなかった。だって、お母さんがそうしろって言ったから。でも、嘘をついたのは私。弟は一生私を許さないと思った。それくらい、鋭い視線だった。これで、私は家族誰もにとって、いらない人になった。

 そして今、私はアパートへの道を一人で歩いてる。
「翔子」
 声をかけられて、顔を上げる。
「元気か?」
 見慣れたバイクに乗ったお父さんがいた。
 私は固まってしまった。
 連れ戻される!
 お母さんが、いつも言ってたみたいに。
「うん」
 私は頷く。
「お母さんは?」
「お仕事」
「そうか」
 お父さんはバイクに乗ったまま、私についてくる。怖くて怖くてたまらない。でも、それだけじゃだめなんだ。
「帰って」
 私は言った。
 その時、お父さんがどんな顔をしていたのか、見る余裕すらなかった。
「こっちに来ないで」
「なんで?」
 お父さんが言う。悲しい笑顔だったような気がする。
「もう、お父さんじゃないから」
 この言葉は、決定的だったようだ。
「そうか……」
 お父さんは、それ以上何も言わずに帰って行った。
 私は震えながら、アパートに帰った。遊びまわってる弟は、いつも私より帰りが遅い。鍵を開けて中に入ると、ようやく震えが全身を襲って畳にへたり込んだ。
作品名:うそつき 作家名:泉絵師 遙夏