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泉絵師 遙夏
泉絵師 遙夏
novelistID. 42743
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あの日の空に帰りたい

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 休みがちではあったが、翠は何とか仕事の方は続けた。一日家に籠っているのも気が滅入ったし、外に出て職場の人と話すのも気晴らしになった。戦争後遺症を理由に本職から臨時雇員扱いにしてもらいながら。
 叔父の四十九日までは、週毎のお大夜があった。西国三十三所巡りの歌を詠みあげる|御詠歌を聞きながら数珠を握り締め、翠は亡き叔父を偲んだ。それと同時に、自分も札所巡りをしたいという思いが湧き上がって来た。京都だけでなく大阪や兵庫、遠くは岐阜や那智まであると知り、到底ひとりで回り切れるものではないと、それは自分の胸の裡にだけ留めおいた。
 御朱印長を買い求め、せめて自力で回れる所はとの思いから、市内のお寺を時間と体力のある時に回った。
 納骨も済ませ、落ち着いてきたある日。妙子は唐突に言い出した。
「もうそろそろ、墓詣りもせなあかんのう」
「お墓は、まだあるんですか」
 驚いて、翠は言った。
「ある言うとったで」
「叔父さんがですか」
「ほや。おっちゃんは、何べんか行っとったみたいや」
「広島にですか」
 妙子は頷いた。
「なんも言わんとな。ウチらには、行くな言いよってからに」
「お母ちゃんも」
 再度、妙子は頷いた。
「もう、行ってええわなぁ。あんたも一緒に行くか」
「はい」
 昭和三十年、あれから十年だった。叔父には頑なに行くことを止められていた故郷への郷愁は、翠のみならず妙子とて同じものだったはずだ。
 汽車の切符は、叔父のかつての知り合いが上手く手配してくれた。
 市電で京都駅まで行き、十年ぶりに汽車に乗った。桂川の橋を渡るとき、叔父に連れられて京都へ来た時のことを思い出した。橋を渡った先の光景も、両親と共に宮島へ行った記憶を呼び覚ました。だが、左手車窓に見えるのは海ではない。もしそれが海だったら、広島だと言われても疑いはしなかっただろう。
 汽車は淀川を渡り、大阪駅に着いた。あの時に見た一面の焼け野原ではなく、駅の周りには多くの建物があった。一言で十年とは言うものの、これほどまでに景色は変わるものなのかと、翠は感慨深げに眺めた。その先の街も、以前に比べるべくもなく人々の生活が息づいていた。乗り場にいる人たちも殺気立ってはいず、整然と列をなして並んでいるのも印象的だった。
 岡山を過ぎてしばらく行った頃、翠は声を上げた。
「ここは……」
 叔父に連れられて京都に向かう際、見えた海。それは、確かにその光景だった。
「笠岡」
「知ったはるんですか」
 妙子が言うのに、翠は息せき切って尋ねる。
「知らへんよ。さっき放送で聞いただけやさかい」
「そうなんですか。ごめんなさい」
 翠は再び窓の外に目をやる。
――間もなく、笠岡、笠岡に到着……――
 車内放送が流れる。
 そうか、あの時に見た海は、笠岡のものだったのかと翠は思った。この先、広島までの記憶はない。だから、翠にとってはあの日以来、初めて踏み入れる領域だった。
 妙子が、翠の頭をぽんぽんと優しく叩く。そう、あの時も、叔父は自分の頭をこんな風に叩いてくれたと、翠は思い返した。もう三十を越えてなお、自分は子供のままなのだと恥じると同時に、翠はそこはかとない安堵感を感じてもいた。結婚もしていないし子供もいない、そんな自分はいつまでも大人にはなれないのではないかという自嘲と共に。
 八本松でしばらく止まる。坂がきついのか列車の速度が遅い。そして、車内放送で次は瀬野だと知らされる。そこでも長く待たされた。車内の人たちの話では、あと少しで広島だと言うのに、随分ともどかしかった。
 長い停車時間の後、再び汽車は動き出した。今度は軽快に。窓外に流れる駅の看板に「かいたいち」の文字を見た時、翠はやっと帰って来られたのだと思った。
 そして、広島。乗り換えの案内放送に聞こえる芸備線の響きも懐かしい。山あいを抜けると一気に汽車は広島へと下る。だが、街の印象は翠が思い描いていたものとはかけ離れていた。大阪、神戸、岡山で見て来たものとさして変わらない光景だったにも関わらず、車窓から見えた街は思った以上に殺風景だった。
 降り立った駅前は広く、まるで知らない街のようだった。振り仰ぐ駅舎も以前よりも小さくなった気がした。電車に乗って中心街へと向かう途上でも、翠は街の様子に見入っていた。
 やたら広い通りに見覚えのある建物を見つけた時、翠は小さく声を上げた。
 それは芸備銀行と住友銀行のビルだった。
 あの前を通って、そして角を曲がり……
 翠はあの朝に歩いた道筋を思い返してみる。脳裏に甦った町並みと今眼前に展開するそれとは、あまりにも隔たりがあった。懐かしさと同時に言いようのない寂しさを覚え、翠は膝に視線を落とした。
 墓のある寺へと歩く間、低い家並みの向こうに見える廃墟がかつての奨励館だと、妙子は教えてくれた。墓は焼け焦げた跡があるもののきちんと残っていた。背後の三本の古びた大塔婆は、叔父のものの他に妙子と翠のものもあった。叔父は出張と称しては時おりここを訪れ、三人分の名義で供養をしてきてくれたのだと、翠は心から感謝した。
「お母ちゃん、ごめんな。ウチ、生きとるよ。ずっと来られへんで、ほんまにごめんな」
 手を合わせているうちに涙が溢れてきて、翠は声を上げて泣き出した。ざらついた墓石を抱きしめ、しきりに謝り続けた。妙子はそんな翠を何も言わないまま見守るばかりだった。泣き崩れ、嗚咽を漏らすだけになった翠の横に屈み込んで、妙子はその背を撫でた。
「姉ちゃんも喜んでるて」
 妙子は言った。
「そうですやろか」
「自分の子に会うて喜ばへん親はおらへん。せやから、泣いてばっかりやのうて、笑たげ」
「そんなん、無理です」
「ほやな。ウチかて笑えへん」
 妙子に手を引かれ、翠は立ち上がった。倒れてしまった花を元通りにし、お光と線香をあげ直した。
 寺で記帳をして帳簿を見せてもらった。そこには母親の他、兄弟や親族一同全ての名が記載されていた。翠は改めて、生き残ったのは本当に自分一人だけなのだと知らされたのだった。
 その日は宮島へ行き、一泊したのちに京都への帰途に就いた。流れゆく街を眺めながら、翠はもう二度とここへ来ることはないだろうという気がした。