東京メランコリズム【前編】
思っていたのだ。
蓮斗にはこれと言った趣味や特技もなかった。唯一の趣味と言えばニルバーナの音楽を聴くこと。それでも趣味と呼べるほどのものではなかった。特技と呼べるものは本当にこれひとつと言っていいぐらい何もなかった。
ニルバーナとは1990年前半頃に活躍していたバンドで、ギターボーカルを務めるカート・コバーンが異常なまでに人気を博していた。カートはドラッグに手を出していたという説がある。そして1994年に自殺をしたと言われている。カートの死後もニルバーナの人気は落ちるどころか、むしろ人気が増していったと言っても過言ではない。ニルバーナに憧れて音楽を始める人も多かった。それぐらい人気のあるバンドだったと言える。蓮斗はカートに憧れ、少しギターを弾いてみたこともあったが、すぐに挫折をしてしまったため、ずっと聴き手としてニルバーナに憧れていた。
それは春の天気の良い昼間のことだった。春風も心地良く散歩日和とも言える日だった。そんなある日、蓮斗は東京の街をふらふらと歩いていた。すると蓮斗の少し前を歩いていた、カーキのモッズコートにデニムのショートパンツに黒いタイツ、そして赤いヒールを履いていた女性が携帯電話を落とした。女性はそれに気付いていない様子だった。蓮斗はその携帯電話を拾い、女性に声をかけた。
「あの…これ、携帯電話落としましたよ。」
「あ、どうもすみません。ありがとうございます。」
「いいえ。」
「助かりました。」
「携帯電話無くすと大変ですからね。」
「あのお礼にお茶でも御馳走させてください。あ、お時間があれば…」
「僕は大丈夫ですよ。でもこの程度でお茶なんて…」
「いいんです。助かりましたから。」
「ではお言葉に甘えさせてもらいますね。」
所持金も大して持っていない蓮斗は女性の誘いに乗った。ただ街をふらふらするだけの蓮斗にはそれが刺激にもなると思ったからだ。ふたりは少し歩くとある喫茶店が見えてきた。
「この喫茶店にしましょうか?」
「はい。僕はどこでも結構ですよ。」
「ではここにしましょう。」
そうするとふたりは喫茶店に入っていった。ふたりはコーヒーを注文した。
「あの、お名前聞いてもいいですか?」
女性は聞いた。
「僕は蓮斗と言います。二十八歳です。」
「蓮斗さんですね。素敵な名前ですね。私は春子と言います。二十三歳です。」
作品名:東京メランコリズム【前編】 作家名:清家詩音